術前の不安に寄り添いながら
再手術を前にした今、私は完璧な平常心を持っているわけではない。だが、私は恐れを否定しない。
「不安という感情が私に何を教えようとしているのか?」
──この問いを大切にしたい。
そして私は旅先で見つけた答えを胸に、静かに言葉を繰り返す。
「ここにいる。今、ここにいる」
この確信が、私の心を穏やかにし、やがて手術台へと導く。旅路は心の奥底を照らす光である。不安と向き合いながらも、今をしっかり生きること。それは私の新しい平常心の創り方であり、手術という大きな挑戦を受け入れるための準備である。平常心とは、恐れのない静けさではなく、恐れを抱えたまま歩き続けられる「意思」である。
影と共に生きる――京都・妙心寺にて平常心を探す
数週間後に転移した肺がんの手術を控えた今、私の心は静かに、しかし確実に揺れている。これまで幾度も大きな手術を経験してきたとはいえ、再び手術台に向かうという現実は、どれほど理性で整理しようとしても、心の奥底に澱のような不安を残す。
不安は、押さえ込もうとすればするほど、かえって輪郭を強める。私はそのことを、がんという病を通じて嫌というほど学んできた。だからこそ今、私は京都へ向かおうとしている。観光でも、気晴らしでもない。心の姿勢を整えるための、いわば「内面の旅」である。
妙心寺へ――会いたい人がいるという理由
京都で必ず訪ねたい場所がある。臨済宗大本山・妙心寺。そして、その塔頭である長慶院の住職、小坂興道和尚である。私は浄土真宗東本願寺で得度している。
阿弥陀如来の本願にすべてを委ねる、他力の思想――それは、日本仏教が生み出した最も深く、同時に最も難解な思想の一つである。頭では理解しているつもりでも、どこか「腹落ちしきらない」感覚が、長年私の中に残ってきた。
一方で、臨済宗の禅の教えには、若い頃から不思議な親和性を感じてきた。善悪や勝敗、敵味方といった二項対立を超え、「あるがままを引き受ける」姿勢。それは、商社マンとして世界を放浪し、資源の現場で修羅場をくぐり抜けてきた私の生き様と、どこかで響き合っている。
がん細胞は「敵」なのか
がんと向き合う過程で、私の認識は大きく変わった。かつて私は、がん細胞を明確な「敵」として捉えていた。見つけ次第、排除し、根絶しなければならない存在――それは医学的には、今もなお正しい。しかし、治療の時間を重ねるうちに、私は別の視点を持つようになった。
がん細胞は、外から侵入してきた異物ではない。それは紛れもなく、自分自身の細胞の変異であり、自分の「影」の一部である。影を否定し、切り捨てることは簡単だ。だが、影を持たない人間など存在しない。むしろ影とどう向き合い、どう折り合いをつけて生きるか――そこに人生の成熟があるのではないか。
禅の世界では、敵を作らない。すべては縁起の中にあり、対立ではなく共生の中で捉え直される。この考え方は、私の中で、がんとの向き合い方を静かに変えていった。
