2025年12月6日(土)

山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2025年11月16日

静かな戦場 ― 56日間の闘いが教えたこと

(Tero Vesalainen)

 病室という空間は、静かであるほどに人を追い詰める。昼と夜の境目が曖昧になり、同じ天井を見上げながら日々が流れていく。入院生活が長くなるほど、身体よりも先に心が疲弊していくのを感じた。

 病とは、肉体の戦いであると同時に、精神の耐久試験でもある。私の入院は56日間に及んだ。長い闘病のなかで最も恐ろしかったのは、痛みよりも「孤独」であった。しかし、そこから見出した生き抜く力がある。

 それは“人とのつながり”と“知的な慰め”、そして“身体を再び動かす意志”である。

仲間の声が支えた夜 ― LINE電話の奇跡

 折れそうな心を支えてくれたのは、学生時代の友人たちだった。毎晩のようにLINE電話をした。1回の通話はきっちり1時間――長すぎず、短すぎず、心を温める時間である。

 話題は政治経済からスポーツ、昔の恋の話、趣味や時事まで何でも良かった。重要なのは内容ではない。ただ「俺には仲間がいる」と実感できるだけで十分だった。

 この1時間の会話が、私の“心のリハビリ”であった。孤独は沈黙の中で増幅するが、人の声があれば消えていく。病室の静寂に、友の笑い声が響くたび、自分がまだ“社会の一部”であることを思い出した。それが生きる力を繋ぎとめてくれた。

孤独を癒すのは「生きた声」だけである

 闘病中に多くの患者が頼るのはテレビやNetflixだが、それらは孤独を埋めてくれるものではなかった。どれほど面白いドラマを見ても、画面の向こうには自分を見てくれる誰もいない。

 私を救ったのは意外にも「古典落語」と「歴史評論」だった。古典落語には人情があり、登場人物の息づかいがある。志ん朝の語り口や談志の間合いに、人の温度を感じた。「笑い」は、最良の鎮静剤である。

 また、歴史評論を読むことで、人類が幾度となく苦難を乗り越えてきた事実を知り、「56日の入院など、歴史の時間で見れば一瞬だ」と思えた。知の力は孤独を相対化し、心を静かに立て直してくれる。

痛みとの共存 ― 感覚として受け止める

 肉体の痛みは精神の敵である。しかし、私は途中で考え方を変えた。痛みを敵視せず、観察することにしたのだ。ドレーンが体内に埋め込まれ、引きつるような痛みが続いた40日間、私は「痛みがどこから来て、どう変化するか」を冷静に見つめた。(ドレーンとは手術後に体内に貯留した液体を排出する管)。

 観察することで、痛みは“感覚”へと変わり、恐怖が薄らいでいった。痛みを受け入れ、呼吸を整え、「今ここ」に意識を戻す。それは禅にも通じる静寂の修行である。痛みは“生きている証”であり、恐怖を越えるための扉でもあった。


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