①がんと得度の不思議な縁
がんを宣告されて得度(とくど)を選ぶ著名人が少なくない。京セラの創業者である故・稲盛和夫氏、作家で僧侶の故・瀬戸内寂聴氏、美容外科医の高須克弥氏、そして元演歌歌手の香田晋氏。それぞれ立場も歩んだ人生も全く異なるが、彼らには共通する一点がある。それは、人生のある時点で「病」という試練に直面し、それを契機に仏門に入り、心の平安や新たな生の指針を求めたという点である。
得度とは、仏教において僧侶となるための正式な儀式を指す。字義的には「度(わたる)」を「得る」と書く。すなわち、苦しみに満ちたこの世である「此岸(しがん)」から、悟りの境地である「彼岸(ひがん)」へと渡ることを許可される、という意味を持つ。一般的には「出家」とほぼ同義で使われるが、その本質は、単に髪を剃り衣(ころも)をまとうという形式にあるのではない。それは、俗世のしがらみや執着を離れ、「心を自由にする」ための、極めて能動的な精神的行為と言える。
がんという病は、否応なく「死」を意識させる、人生最大の試練の一つである。肉体の苦痛だけでなく、未来の計画がすべて白紙に戻る絶望感、キャリアの断絶、家族への負担など、精神的な苦悩は計り知れない。
だが、同時にがんは「お前は、残された時間をどう生きるのか」と鋭く問いかける、最期の教師でもある。健康という鎧を剥ぎ取られ、生の有限性を突きつけられたとき、人は初めて人生の根本問題と向き合う。だからこそ多くの人が、この病をきっかけに得度という道を志すのではないだろうか。
これは決して他人事ではない。実は私自身、今から12年前、60代半ばで前立腺がんと診断され、その闘病のさなかに得度した経験を持つ。本稿では、なぜ人は病を得て仏門を叩くのか、その心理の深層を、著名人たちの事例と私自身の体験を通して深く掘り下げていきたい。
②生病老死との直面
仏教では、人間が本質的に抱える四つの苦しみを「生病老死(しょうびょうろうし)」として説く。これを「四苦」と呼ぶ。
「生」とは、この世に生まれ、生きていくことそのものに伴う苦しみである。
「老」とは、老いていく苦しみ。体力、気力、容色(ようしょく)が衰えていくことへの抵抗感と無力感である。
「病」とは、病気になる苦しみ。痛みや不自由さ、そして健康を失うことへの恐怖である。
「死」とは、死んでいく苦しみ。築き上げたものすべてを失い、未知の世界へ去ることへの本能的な恐怖である。
健康な時、特に若くして第一線で活躍している時、この「生病老死」は遠い世界の観念でしかない。私自身、商社マンとして世界を駆け巡り、独立して会社を経営し、常に「前へ、上へ」と進むことだけを考えて生きてきた。「老」や「病」はいつか来るものと知りつつも、「死」に至っては、自分の人生のスケジュールには存在しないかのように振る舞っていた。
しかし60代を迎え、自覚はなくとも確実に「老」が忍び寄る中で、「病」、それも「がん」という形で、「死」が突如として目の前に突きつけられた。
「中村さん、残念ながら、がんです」
医師の冷静な告知が、現実のものとして耳に届くまで数秒の間があった。頭が白くなるというのは、まさしくあの感覚である。それまで自分を支えてきた自信、経験、合理性といったものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。その日から、「老」「病」「死」の三つの苦が、現実として私に重くのしかかってきた。
健康な時、我々は「生」の苦しみなど意識しない。だが、がん患者となった瞬間、「生きていること」そのものが苦しみの舞台となる。治療の副作用、検査結果への不安、再発の恐怖。日常がこれほど脆く、不確かなものであったかを、これほど痛感したことはない。
「生病老死」とは、他人事の哲学ではなく、がん患者が日々直面するリアルそのものである。この四苦から逃れることはできないと知った時、人は「では、この苦しみとどう向き合うか」という、次の段階に進まざるを得ないのである。
③私のがん体験と得度への道
12年前、私は前立腺がんと診断された。いわゆるPSA(前立腺特異抗原)の値が上昇し、精密検査を受けた結果であった。経営者として、常に自己の健康管理には人一倍気を遣ってきた自負があっただけに、その衝撃は大きかった。
最初の数日間は、恐怖と怒りと、そして深い絶望の中にいた。「なぜ自分が」「何か悪いことをしたか」。仕事の予定、家族の未来、まだやり残したこと。あらゆるものが頭を駆け巡り、夜も眠れず、ただインターネットで病名と「生存率」を検索し続ける日々が続いた。
身体の主導権は、完全に医師の手に渡った。私は「経営者・中村繁夫」から、単なる「患者番号XXX番」という記号になったような無力感に襲われた。手術、放射線、ホルモン療法。提示される選択肢はどれも一長一短があり、どれを選んでも失うものがある。この時、私を支えたのは、これまで武器にしてきたビジネスマンとしての合理主義や交渉術ではなかった。それらがいかに「健康」という土台の上でしか機能しないかを痛感させられた。
私が求めたのは、もっと根源的な「心の拠り所」であった。なぜ、私は数ある選択肢の中から「得度」を選んだのか。それは、神仏にすがり「救い」を求めたためではない。むしろ逆で、この現実を受け入れるための「覚悟」を決めるためであった。
がん告知は、私に「死」が遠い未来の出来事ではなく、具体的なスケジュールとして存在しうることを教えた。ならば、死ぬかもしれないという現実から目をそむけ、ただ延命治療に一喜一憂するのではなく、その「死」を真正面から見据え、受け入れ、その上で残された生をどう整えるか。
「よく死ぬ(Well-dying)」準備こそが、結果として「よく生きる(Well-being)」ことにつながるのではないか。そう直感したのである。
私は、京都の東本願寺の門を叩いた。東本願寺は中村家のは菩提寺で、私は事情を話し、得度を願い出た。住職は静かに私の話を聞き、そして「覚悟が決まったのなら」と受け入れてくださった。
得度式は8月4日に白装束に身を包み、読経が響く本堂で、私は頭に剃刀(かみそり)を当てられた。髪が剃り落とされる冷たい感触とともに、不思議な解放感が全身を包んだ。肩書、プライド、実績、そして病への恐怖。そうした俗世の塵芥(ちりあくた)が、髪の毛と共にハラハラと落ちていくようであった。
そして、法衣(ほうえ)をまとわせていただき、法号(ほうごう)を授かった。
「釈智着(しゃくちちゃく)」
「仏の智慧を身に着け、実践する者」という意味が込められていた。その瞬間、私は「がん患者・中村繁夫」という病に支配された存在から、「釈智着」という仏弟子としての新しい生を与えられた。これは決して死への準備などではなく、病という現実を引き受けた上で、二重の生を生き抜くという「覚悟の儀式」であった。
