2025年12月6日(土)

山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2025年7月24日

(Malte Mueller/gettyimages)

 日本は1970年代から80年代にかけて、技術立国としての地位を確立した国である。その時期、日本は世界に対して卓越した技術力を示し、多くの分野でリーダーシップを発揮してきた。しかし、ある時期からその経済成長は停滞し始めた。

 それには筆者自身の行動が少なからず関与しているかもしれない。

 私は、日本のレアメタル精製技術を中国に提供したのである。この行動が中国の技術発展を促進の一翼を担い、一方で、日本の停滞の遠因の一つになった可能性があるため、その経緯をここに記す。

 当時、中国からの原料品質は低く、日本の市場基準を満たすことができなかった。日本の需要家にはクレーム解決を目的とした技術交流を依頼したのである。

 何度もお願いし、日本の技術者たちは現地を訪れ、無償で技術を供与することに賛同してくれた。私は結果として日本の技術移転を仲介した。

 ただ、率直に言って、今から思えば、自分が中国の“お先棒”を担いでいたようなものかもしれない――。そんな思いが胸をかすめる。

 中国に先端技術を提供したことには複雑な思いがある。

技術提供の背景と日本のプライド

 1980年代、日本の産業界は中国からの低品質なレアメタル原料に頭を悩ませていた。日本市場の厳しい品質基準を満たすことができず、私は日本の技術を中国に提供することを需要家に推奨した。

 日本のお客様に低品質でクレーム品となる商品を提供することはできず、私は何度も中国を訪れ、改善策を模索した。しかし、現場の技術力不足は深刻であり、交渉だけでは解決に至らなかった。

 この時期、日本の技術者たちは自国の技術力が世界に貢献しているという誇りを持っていた。彼らは常に品質向上を追求し、新しい技術を開発することに情熱を燃やしていたのである。彼らの努力により、日本は技術立国としての地位を築くことができた。

 当時の日本人技術者は、性善説に基づき、日本の技術を中国にも惜しげもなく提供した。良い品質の製品を製造するには良い品質の中間品が必要であるという私の論理に基づく行動であった。

技術交流の実態と中国の成長

 私は日本の技術者を中国に派遣し、現地の技術者に指導を行うよう依頼した。技術者同士の友情と信頼に基づき、最新のイオン交換膜分離技術や抽出溶媒技術、攪拌機技術などのノウハウが中国に伝えられた。この技術交流が、中国のレアメタル業界の基盤を築き、彼らの技術力向上に大きく寄与したことは明白である。

 いったん、一社に与えると、数カ月後には中国のどの工場も「自社技術で開発した」と胸を張るところが、中国らしいと苦笑せざるを得なかった。

 中国の技術者たちは、日本からの指導を受け、さらに自国の技術を向上させていった。彼らの努力と日本の技術が融合し、中国は短期間で急速な成長を遂げた。

 しかし、その過程で日本からの支援や技術提供があったことを忘れず、常に謙虚な姿勢で感謝を表明することが求められる。といいたいが、それは日本人独特の感性である。

技術の伝播と誤解

 1990年代以降、中国はレアメタル市場で急成長を遂げた。日本から学んだ技術を基盤に、中国は独自の発展を遂げたのである。2000年代になると、技術者たちは日本からの教えを忘れ、自国の技術力による成功と誤解するようになった。この誤解は、中国の技術力の向上とともに広がり、日本の技術的優位性は影を潜めることとなった。

 しかし、歴史を振り返れば、日本の技術が中国の発展を支えたことは否めない事実である。これは、決して、レアメタルに限らないことである。中国の技術者たちは、日本からの恩義を忘れず、常に感謝の気持ちを持ち続けることが重要である。

 だが、日本人はその歴史と事実を書面に残さないことが多い。


新着記事

»もっと見る