「こんなにカッコイイ野球選手がいるんだ」
思えば、テレビに映るイチローを初めて見た時に土谷鉄平(以後、鉄平)の一生は決まったのかもしれない。
「しなやかで、柔らかい。それまでの野球選手像とはまるで違った」
元々は、兄の着ているユニフォームがカッコイイという理由だけで始めた野球。〝カッコイイ〟は、鉄平の行動の源泉であった。
鉄平は、50メートルを5秒9で駆け抜ける脚力と、遠投110メートルを誇る肩を兼ね備える。中学時代から始めた左打ちは、「首がうまくピッチャーのほうに向かないから、寝るときはうつ伏せになって右を向いて寝た」という徹底ぶりで、高校通算打率は5割5分1厘を誇った。
「4打数2安打でも、物足りなかった」
通算打率が5割を超えるということは、4打数2安打でも打率は下がる。鉄平のこの言葉は、誇張ではない。いつしか付いた異名は「九州のイチロー」。2000年、ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団した。
「不安が95%、期待が5%。みんな体がデカくて、雰囲気もとにかくピリピリしていた」
入るスキがなかった中日外野陣
1年目の01年といえば、第2次星野仙一監督時代の最終年である。前年2位の雪辱(せつじょく)を果たすシーズンで、グラウンドの空気は張りつめていた。
そんな中、圧倒的な練習量にもついていき、プロ2年目までは2軍で下積みを重ね、3年目は2軍でレギュラーを獲得。外野にコンバートされた4年目からは、1軍でも試合に出るようになり、日本シリーズにも代走で出場した。しかし、順調にキャリアを積み上げていく中にあっても、鉄平の心は晴れなかった。当時の外野は、福留、アレックスというレギュラーに加え、残るレフトの枠を、井上、英智、大西が使い分けられ、1軍にいたとしても、よくて代走要員であった。
「アレックスの肩を見たときに、『これは勝てるはずがない』と思った。正直、この世代が衰えた頃に追い抜けるようになろうというのが、精一杯のモチベーションだった」