2024年12月5日(木)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年5月18日

 「こんなにカッコイイ野球選手がいるんだ」

土谷鉄平 Teppei Tsuchiya 1982年生まれ。大分県立津久見高校では通算で5割を超す打率を誇り、2000年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受けて入団。2軍では好成績を残すも1軍のレギュラーには定着できなかった。05年オフに金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。登録名を鉄平に変更した。移籍1年目からレギュラーとして試合に出て、09年には首位打者のタイトルを獲得する。翌10年も3割超の打率を記録したが、11年から不調に陥り、13年オフにトレードでオリックス・バファローズへ移籍。2軍では好成績を残すも15年オフに戦力外通告を受け、16年に引退。現在は楽天野球団が運営する楽天イーグルスアカデミー・ベースボールスクールのジュニアコーチを務める。(写真・NAONORI KOHIRA)

 思えば、テレビに映るイチローを初めて見た時に土谷鉄平(以後、鉄平)の一生は決まったのかもしれない。

 「しなやかで、柔らかい。それまでの野球選手像とはまるで違った」

 元々は、兄の着ているユニフォームがカッコイイという理由だけで始めた野球。〝カッコイイ〟は、鉄平の行動の源泉であった。

 鉄平は、50メートルを5秒9で駆け抜ける脚力と、遠投110メートルを誇る肩を兼ね備える。中学時代から始めた左打ちは、「首がうまくピッチャーのほうに向かないから、寝るときはうつ伏せになって右を向いて寝た」という徹底ぶりで、高校通算打率は5割5分1厘を誇った。

 「4打数2安打でも、物足りなかった」

 通算打率が5割を超えるということは、4打数2安打でも打率は下がる。鉄平のこの言葉は、誇張ではない。いつしか付いた異名は「九州のイチロー」。2000年、ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団した。

 「不安が95%、期待が5%。みんな体がデカくて、雰囲気もとにかくピリピリしていた」

入るスキがなかった中日外野陣

 1年目の01年といえば、第2次星野仙一監督時代の最終年である。前年2位の雪辱(せつじょく)を果たすシーズンで、グラウンドの空気は張りつめていた。

 そんな中、圧倒的な練習量にもついていき、プロ2年目までは2軍で下積みを重ね、3年目は2軍でレギュラーを獲得。外野にコンバートされた4年目からは、1軍でも試合に出るようになり、日本シリーズにも代走で出場した。しかし、順調にキャリアを積み上げていく中にあっても、鉄平の心は晴れなかった。当時の外野は、福留、アレックスというレギュラーに加え、残るレフトの枠を、井上、英智、大西が使い分けられ、1軍にいたとしても、よくて代走要員であった。

 「アレックスの肩を見たときに、『これは勝てるはずがない』と思った。正直、この世代が衰えた頃に追い抜けるようになろうというのが、精一杯のモチベーションだった」


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