13年、チームは初のリーグ優勝、日本一に輝くも、鉄平は2軍にいた。選手会長でありながらチームの輪に入れずにいる歯がゆさよりも、パフォーマンスが発揮できないことへの歯がゆさのほうが大きかった。年俸は8600万円から4000万円へと、半ば志願する形で減俸となった。直後にオリックスへのトレードが決まった。
「寂しさよりも、心機一転、もう一度1軍に上がるという気持ちになれた」
移籍2年目の15年、開幕から好調を維持し、感覚は戻りつつあったが、5月、スイングをした際に腹斜筋を痛める。怪我も治らぬうちに復帰するも、スイングもできない状態だった。
その後2軍に降格し、チーム事情もあり内野の守備につく。慣れない内野守備の際、坐骨結筋を挫傷し、全力疾走ができなくなった。それでも、試合に出続けた。打率は4割を超え、感覚が戻ってきていることは誰の目にも明らかだった。
8月、満身創痍(そうい)であったが、走れることを証明するためについた外野守備。ここで、左足のハムストリングスが肉離れを起こす。ついに走ることができなくなった。
「打つ感覚がかなり戻ってきていただけに、復帰への思いもあった。でも、速く走れない自分が、精神的にきつかった」
10月末、2軍のマネジャーから来年の契約はしない旨を電話で告げられた。2カ月間、リハビリとトレーニングに励み、他球団から声がかかるのを待ったが、16年1月、引退を決めた。
「野球の新しい見方を勉強中です」
引退後は仙台に戻り、現在は楽天のジュニアスクールのコーチとなっている。ヘルメットの下で光る勝負師の目は随分と穏やかになっている。
「野球人生の終盤は苦しみしかなかった。やっと解放される。正直、ホッとした気持ちもあった」
引退直後の感情を「解放」という言葉で表現するあたりに、そこに到達した者にしかわからない葛藤が見える。
「子供たちに、どうやって伝えたらいいんだろう? と、日々試行錯誤しています」
考えて考えて考え抜いた鉄平の野球人生が、次の世代へと継承されていく。鉄平の目は、未来を向いている。(文中敬称略)
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