チャンスがないわけではなかった。5年目のシーズン前、澤井、鎌田、鉄平が落合博満監督の声掛けにより、1塁ベースに招集された。
「今から3塁ベースまで一番速く走ったやつを1軍に残す」
0コンマ数秒の差で澤井に届かなかった鉄平。結局このシーズン1軍にいたのは3日間だけだった。それでも、2軍では3割3分の打率を残した。
同年秋、10月の教育リーグのメンバーから外れ、代わりに球団事務所に呼ばれる。東北楽天ゴールデンイーグルスへのトレード通告だった。
寂しい気持ちもあったが、これはチャンスだ、と燃える気持ちもあった」
「才能が開花する日はもうそこまで来ていた。
「中日は、よくこんなイイ選手を出してくれたな」。こう評価したのは、この年から楽天の監督に就任した野村克也監督である。実はこのトレードには後日談がある。トレードに出した中日の落合監督も、「鉄平は、ウチでは試合に出られないが、他球団ならチャンスがある。トレードに出したほうが、鉄平のためになる」と、その能力を高く評価していた。新天地でチャンスを得た鉄平は、103試合に出場し打率3割3厘を記録する。
「野村監督のおかげで、常に考えるクセがついた。感覚だけでやってきたところに、考えが入るようになった」
レギュラーとなった鉄平は、09年に打率3割2分7厘で首位打者を獲得。
「人生が変わった……んですかね? 僕の中では特に変わらなかった」
どこか他人事で、冷静で、素朴な鉄平の雰囲気は、中日での下積みの長さを物語っているかのようだった。
11年、元々スロースターターである鉄平だったが、キャンプが終わり、オープン戦を消化しても、一向に調子が上がらない。そんな中で、東日本大震災が起きた。
「自分の中で、大きすぎる出来事だった。野球をやっている場合なのか、と真剣に考え、また、野球と向き合う機会にもなった」
この年は不安でいっぱいだった中日1年目のときの監督である星野氏が楽天の監督に就任した年。キャプテンにも任命され、気力は充実していた。それでも、ついに最後まで調子が上がることなくシーズンを終えた。
「走る力も、投げる力も、全く衰えていない。今でも原因は分からない」
翌年からは、練習量を中日時代並みに増やし、いい感覚が戻るときもあった。それでも、調子の浮き沈みを繰り返し、不安定なシーズンを送る。
「考えるクセが、考えすぎるクセに変わっていた。いい時の感覚を追いすぎて、自分のバッティングが分からなくなっていた」