2024年4月20日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年2月10日

 史上最も激戦だった新人王争い。それは、1998年のセ・リーグではなかろうか。54試合に登板し、9勝18セーブを挙げた広島の小林幹英。打率3割、19本塁打を記録した巨人の高橋由伸。阪神の坪井智哉は3割2分7厘、2本塁打を記録した。

川上憲伸 (Kenshin Kawakami)
1975年生まれ。徳島商業高校では4番、エースとして活躍。高校卒業時点では、野手でドラフト指名される話もあったが、明治大学に進学。97年にドラフト1位で中日ドラゴンズへ入団。1年目から14勝6敗という好成績を挙げ、新人王に輝く。2004年、06年には最多勝タイトルを獲得するなど、球界を代表する投手となる。打撃も得意で、投手としては異例となる8本の本塁打を放った。09年にアトランタ・ブレーブスへ移籍するも肩痛に苦しんだ。12年から再び中日ドラゴンズのユニフォームを着ることになるも、13年オフに戦力外通告を受ける。その後、再契約したが、15年オフに再び戦力外通告を受けた。現在はプロ野球復帰に向けたトレーニングを行っている。
(写真・NAONORI KOHIRA)

 彼らを差し置いて新人王に輝いた男、それが14勝を挙げた中日の川上憲伸である。

 「ワケも分からず投げ続けていたら、気付けば最多勝も争える位置にいた」

 明治大学から逆指名で入団した前評判に満点以上の回答を出した。球団、ファンは、待ちに待った新たなエースとして、大きな期待を寄せた。

 しかし、2年目は葛藤の中にいた。川上は肩を痛めていた。前年に残した強烈なインパクトと期待は、若いエースから痛みを打ち明ける機会を奪っていた。その後も、肩は「ずっとモヤモヤした状態」が続く。3年目は2勝、4年目は6勝と、川上自身にも焦りが見られるようになった。

 「俺はこのまま、終わっていくかもしれない」

 4年目の秋季キャンプ。ここで運命的な“機会”に巡り合う。

 「夜、テレビをつけると、メジャーのワールドシリーズをやっていて、ヤンキースのクローザーが見たことのないボールを投げていた。釘付けになった」

 カットボール。ストレートに限りなく近い球速で、打者の手元でわずかに変化するこのボールを投げる投手は、当時の日本では皆無であった。

 テレビに映るマリアーノ・リベラは、歴代最多の608セーブを記録した伝説の投手。150キロを超えるカットボールとストレート。わずか2つの球種だけで、バッターを圧倒する投球に、川上の心は躍った。

 「当時のテレビは画質が悪くて、握りもよく分からない。擦り切れるくらいビデオを再生して研究した」

 握りを変え、リリースを工夫し試行錯誤するも、習得できない。たどり着いたのが、カットボールでの遠投。最初は50メートルの距離も投げられなかったが、徐々に感覚を掴み、最終的には80メートルまで投げられるようになった。

 「指先に集中していたけど、大事なのは体だった。体を使って変化球を投げる感覚は新しく、ブルペンで投げた時には、もう完成形だった。次のシーズンが待ち遠しかった」

 川上の代名詞、カットボールが産声をあげた。

 迎えた2002年。12勝を挙げ見事に復活。04年には17勝で9つのタイトルを獲得。07年に日本一に輝き、「強い中日のエース」として、その実力を疑う者はいなかった。

 「エースとしての立場、他球団のライバル、全てが自分を高めてくれた。高いレベルで競い合うことで、集中力はどんどん増していった」

 中日の川上憲伸は伝説になろうとしていた。


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