史上最も激戦だった新人王争い。それは、1998年のセ・リーグではなかろうか。54試合に登板し、9勝18セーブを挙げた広島の小林幹英。打率3割、19本塁打を記録した巨人の高橋由伸。阪神の坪井智哉は3割2分7厘、2本塁打を記録した。
彼らを差し置いて新人王に輝いた男、それが14勝を挙げた中日の川上憲伸である。
「ワケも分からず投げ続けていたら、気付けば最多勝も争える位置にいた」
明治大学から逆指名で入団した前評判に満点以上の回答を出した。球団、ファンは、待ちに待った新たなエースとして、大きな期待を寄せた。
しかし、2年目は葛藤の中にいた。川上は肩を痛めていた。前年に残した強烈なインパクトと期待は、若いエースから痛みを打ち明ける機会を奪っていた。その後も、肩は「ずっとモヤモヤした状態」が続く。3年目は2勝、4年目は6勝と、川上自身にも焦りが見られるようになった。
「俺はこのまま、終わっていくかもしれない」
4年目の秋季キャンプ。ここで運命的な“機会”に巡り合う。
「夜、テレビをつけると、メジャーのワールドシリーズをやっていて、ヤンキースのクローザーが見たことのないボールを投げていた。釘付けになった」
カットボール。ストレートに限りなく近い球速で、打者の手元でわずかに変化するこのボールを投げる投手は、当時の日本では皆無であった。
テレビに映るマリアーノ・リベラは、歴代最多の608セーブを記録した伝説の投手。150キロを超えるカットボールとストレート。わずか2つの球種だけで、バッターを圧倒する投球に、川上の心は躍った。
「当時のテレビは画質が悪くて、握りもよく分からない。擦り切れるくらいビデオを再生して研究した」
握りを変え、リリースを工夫し試行錯誤するも、習得できない。たどり着いたのが、カットボールでの遠投。最初は50メートルの距離も投げられなかったが、徐々に感覚を掴み、最終的には80メートルまで投げられるようになった。
「指先に集中していたけど、大事なのは体だった。体を使って変化球を投げる感覚は新しく、ブルペンで投げた時には、もう完成形だった。次のシーズンが待ち遠しかった」
川上の代名詞、カットボールが産声をあげた。
迎えた2002年。12勝を挙げ見事に復活。04年には17勝で9つのタイトルを獲得。07年に日本一に輝き、「強い中日のエース」として、その実力を疑う者はいなかった。
「エースとしての立場、他球団のライバル、全てが自分を高めてくれた。高いレベルで競い合うことで、集中力はどんどん増していった」
中日の川上憲伸は伝説になろうとしていた。