2024年12月15日(日)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年4月17日

 「家に帰ってテレビをつけると、1軍の試合がやっていた。テレビに映るカクテル光線が眩(まぶ)しくて。もう一度、あそこでやりたいと強く思った」

1961年生まれ。広島県広島市出身。小学校時代はサッカーにのめり込んだが、中学校にはサッカー部がなかったことから野球部に入部。広島商業高校に憧れていたものの、もっとも早く声をかけたPL学園に入学。法政大学を経て、83年のドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。1年目から2割8分、16本塁打で新人王を獲得するなど、長らく主軸として活躍。96年に戦力外通告を受け、ヤクルトスワローズへ移籍。迎えた開幕戦で3打席連続本塁打を放つ。日本シリーズにも出場した。99年に二度目の戦力外通告を受けて引退。通算1093安打、171本塁打。現在は野球解説者。(写真・NAONORI KOHIRA)

 1996年、ペナントレースは夏を迎え、いよいよ後半戦に向かっていく最中、小早川毅彦は来季の契約をしないことを球団から告げられた。広島生まれ広島育ち。念願のカープ入団から13年が過ぎた時だった。

 球団からは、指導者を含めたその後の道も用意されていた。それは、小早川の13年の功績を考慮してのものだった。それでも、現役の道を選んだ。元来の勝負師としての血が、小早川を再びグラウンドに向かわせた。

仕方なく入った中学校の野球部

 「サッカー部がなかったので、野球でもやろうか、と思い始めた」

 小学校時代、サッカーをしていた。しかし、進んだ中学校にはサッカー部が無く、当時はクラブチームもなかった。半ば仕方なく選んだ野球部は、野球経験のない監督が顧問を務めていた。ポケットにはいつも、野球指導の本が入っている。

 「空手出身の人で相当厳しかった。この監督のひたむきな姿勢に影響を受け、野球にのめり込んでいった」

 厳しい練習のもとに才能が開花した小早川は、大阪の名門PL学園から声がかかる。76年当時のPL学園は全国に名を轟かすほど有名ではなく、また越境入学自体も珍しい時代であった。

 「最初に声をかけてくれたことに感動して、即答した」

 しかし、当の本人はPL学園のことを「ガスの会社だと思った」ほど何も知らず、「そりゃLPじゃ」と親に突っ込まれるほどであった。当時、プロへの思いは露ほども無く、思いは一つ、「甲子園」だけであった。

 高校2年の春、レギュラーとして甲子園に出場する。同年夏の甲子園は怪我のためアルプス席からの応援となったが、この時チームは初優勝を飾る。3年春にも甲子園に出場し、ベスト4の成績を収める。この頃、まだ「プロ」という道には目覚めておらず、「野球を通じて生きていくことになるだろう」という思いが、法政大学への道を開いた。


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