「家に帰ってテレビをつけると、1軍の試合がやっていた。テレビに映るカクテル光線が眩(まぶ)しくて。もう一度、あそこでやりたいと強く思った」
1996年、ペナントレースは夏を迎え、いよいよ後半戦に向かっていく最中、小早川毅彦は来季の契約をしないことを球団から告げられた。広島生まれ広島育ち。念願のカープ入団から13年が過ぎた時だった。
球団からは、指導者を含めたその後の道も用意されていた。それは、小早川の13年の功績を考慮してのものだった。それでも、現役の道を選んだ。元来の勝負師としての血が、小早川を再びグラウンドに向かわせた。
仕方なく入った中学校の野球部
「サッカー部がなかったので、野球でもやろうか、と思い始めた」
小学校時代、サッカーをしていた。しかし、進んだ中学校にはサッカー部が無く、当時はクラブチームもなかった。半ば仕方なく選んだ野球部は、野球経験のない監督が顧問を務めていた。ポケットにはいつも、野球指導の本が入っている。
「空手出身の人で相当厳しかった。この監督のひたむきな姿勢に影響を受け、野球にのめり込んでいった」
厳しい練習のもとに才能が開花した小早川は、大阪の名門PL学園から声がかかる。76年当時のPL学園は全国に名を轟かすほど有名ではなく、また越境入学自体も珍しい時代であった。
「最初に声をかけてくれたことに感動して、即答した」
しかし、当の本人はPL学園のことを「ガスの会社だと思った」ほど何も知らず、「そりゃLPじゃ」と親に突っ込まれるほどであった。当時、プロへの思いは露ほども無く、思いは一つ、「甲子園」だけであった。
高校2年の春、レギュラーとして甲子園に出場する。同年夏の甲子園は怪我のためアルプス席からの応援となったが、この時チームは初優勝を飾る。3年春にも甲子園に出場し、ベスト4の成績を収める。この頃、まだ「プロ」という道には目覚めておらず、「野球を通じて生きていくことになるだろう」という思いが、法政大学への道を開いた。