1年生から四番打者となり、史上最年少で六大学野球のベストナインを獲得。2年時には三冠王に輝き、3年時には日本一。リーグ戦では通算4回優勝した。目覚ましい活躍の中で、小早川の中にある思いが芽生える。
「PL学園、法政大学で一緒にプレーしていた西田真二さん、木戸克彦さん、東海大学の原辰徳さん、明治大学の平田勝男さんといった見慣れた先輩が、相次いでプロに入っていく。俺もプロに行きたいと思った」
83年、ドラフト2位で広島東洋カープから指名を受ける。生まれ育った広島へ、プロ野球選手となって帰ることになった。
「練習に関しては相当やってきたつもりだったけど、そりゃ本当に、騙されたと思うくらい、練習はキツかった」
当時のカープのキャンプといえば、未だに伝説として語り継がれるほど、厳しい練習で有名である。宿舎に帰ると、這って部屋に入る日もあるほど、厳しい練習は続いた。要領よくやろうと思っても、山本浩二、衣笠祥雄の両大ベテランが、厳しい練習の先頭に立ってチームを引っ張っている。彼らの必死な練習態度は、若手への無言のメッセージとなり、練習の強度は図らずも上がっていく。その甲斐あってか、1年目に新人王を獲得する。それでも、「また、2月になればキャンプがやってくる」と考えるだけで、新人王の余韻は吹き飛んだ。それくらい、カープのキャンプは厳しかった。
「若い頃にあれだけやったから、長くやれたと思う。そう考えると、最初のチームがカープで、本当によかった」
小早川は、カープの顔となった。87年9月には、大学の先輩でもある江川卓から逆転サヨナラツーランホームランを放つ。のちに江川が引退する際、このホームランが引退の決め手となったと言わしめた。
91年頃からは控えに回ることも増えてきた。11年目を迎えた94年頃からは、自身の思う起用法とは完全にズレが出てきた。
「野球はチームプレー。ありのままを素直に受け入れることも、俺の役目」
控えに回っても、腐ることなく、役割を全うすることができたのは、山本浩二や衣笠祥雄らが築き上げたカープの文化といえよう。彼らはことあるごとにチーム第一主義を説き、「チーム内に派閥をつくってはならない」という教えをチームに根付かせた。
13年目、開幕こそ1軍で迎えたが5月に2軍に降格。怪我以外で2軍に落ちるのは初めてのことだった。そして、夏に告げられた引退勧告。現役続行を表明し、決まった移籍先はヤクルトスワローズ。
「広島カープを去ることは、寂しかった。それでも、プロとしてまたグラウンドに立てることが嬉しかった」