中台の政治・社会に存在する懸隔
かつて、中国共産党および長年台湾で独裁をふるっていた中国国民党は、「一つの中国」イデオロギーを通じて台湾は「解放」されるべきであり、あるいは大陸は「光復」されるべきであると考えていた。要するに中華人民共和国と中華民国のいずれかが国共内戦に勝利して、全国を統一することこそ善である、という発想である。しかし、そもそも近代以来、大陸と台湾が同じ国家に支配されたのは1945年からの4年間でしかない。両岸の政治・社会には懸隔が大きすぎることは否めない。加えて80年代になると、長年の計画経済によって立ち後れた中国経済と、「アジア四小龍・NIES」のひとつとして先進国に準じる豊かさと安定を実現しつつあった台湾経済との落差は覆うべくもなかった。この両者を性急に統一すれば混乱を招くのは必定であるが、「祖国統一」の道は放棄してはならない――。そう考えた鄧小平は、1997年に英国から返還されることが決まった香港に、大陸とは異なる制度を維持する「特別行政区」を設定し、それを将来台湾にも適用しようと考えた。また、そこに至るまでの当面の妥協として、台湾と諸外国との事実上の関係を黙認しつつも、あくまで名義・名分においては「台湾が中国の一部分であること」を踏み外さないよう、台湾および諸外国を拘束しようとしてきたのである。
一方、台湾では、中華民国の範囲が今や台湾+αの島々であるに過ぎないという現実に、政治体制の側が妥協した。かつて、1945年以後台湾に来た「外省人」は「日本の植民地支配にあえぐ台湾に光復=解放をもたらした者」を自認し、台湾の富と人的資源を「大陸奪還」のために動員しようとした。その抑圧に対し、1945年以前から台湾に住み日本的教養を身につけた人々である「本省人」は反発し、経済発展の中で自己主張を強めてきた。とくに、「台湾」という名義で独立国家を目指す人々は、弾圧に耐えて民主進歩党(民進党)へと結集したが、一方、外省人や民進党に加わらない本省人も「台湾にある中華民国」の現実に合わせ、大陸との統一は将来大陸で台湾と同じ自由・民主が実現した後の課題として棚上げしている。
そこで現在の「台湾にある中華民国」は、現実には虚構と化している「一つの中国」イデオロギーについて、中国大陸との関係を保つためにも、あるいは台湾内部でのアイデンティティの争いを激化させないためにも一応掲げている。そのような現状を明確に改め、公民投票で国号の変更を決めようとした陳水扁政権は、中国からの「分裂主義者」という非難以上に、台湾社会内部で「当面実現が難しいポピュリズム的主張で失政続きの状況を曖昧にしようとしている」と非難され、一時民進党の党勢減退を招いた。
台湾のWHOオブザーバー参加を封じた中国
とはいえ勿論、台湾独立を求める主張、あるいは大陸との統一は望まず「台湾にある中華民国」という現状を維持すれば良いという議論が根強いことは確かである。
それでも、「台湾にある中華民国」が国際舞台に参与しようとするとき、圧倒的多数の国々が中華人民共和国を「中国の正統な政権」と認め、「台湾は中国の一部分である」という主張を尊重せざるを得ない状況がある。したがって、一部の「台湾にある中華民国」と外交関係を結んでいる国々との関係を除き、公的な性格が強い場面で「中華民国」「台湾」という名称を唱えることは出来ない。また、「参加単位は国である」と規定している国際機関において、そもそも「台湾にある中華民国」はオブザーバーとしての参加すら中国によって排除されている。
例えば、致死的な伝染病であるSARSが2003年に大流行した際、台湾が緊急に求めたWHO(世界保健機関)オブザーバー参加すら、中国の「WHOに参加できるのは独立国のみである。中国は台湾の分も含めて代表しており、中国が台湾に必要な援助を行う」という主張により封じ込められた(しかし中国は自国の危機管理で精一杯であり、台湾に必要な援助を行う余裕など全くなかった)。