「僕は無学であることを看板にして、なんでも聞くことにしていた。井深の兄貴は僕の話をよく聞いてくれるんだ。ひらめきだけでやっている僕のやりかたをわかってくれて、うれしかった」
そんな本田について、井深は次のように表現する。
「凡人は、知っているんだ、こう考えてるんだぞ、という態度になる。そうすると、本音と建前が出る。本田さんは本音ばかり、世の中にだしたまれな例ですよ」
「本田さんのやりかたは、まず目標をたてる。同じシリンダーで回転数を上げる。技術がないなら、技術を創る。私も同じようところがあるのでわかる」
本田は、オートバイの機能の向上を引き上がるために、「箱根越え」の目標を掲げる。日本メーカーのオートバイは当時、箱根の山道を越えることができなかった。
「車で(試験運転している)オートバイを追いかけていったんです。ところが見失った。これは、谷底にでも落ちたか、と思ったら、頂上にうちのオートバイがいたんですよ」
新型のオートバイを開発、販売したが、不況もたたって、在庫のヤマを築くことになった。このとき、本田が社内で宣言したのは、世界的なオートバイのレースである「マン島」で優勝することであった。実際にレースを見に行ってみると、世界の壁はとてつもなく高かった。エンジンの回転数を航空機並みに引き上げなければならなかったし、レースに優勝するオートバイを製造するには、日本にその部品がなかった。
「部品をヨーロッパで買って、バックにつめこんだら、ローマの空港でリミットオーバーになった。それで、『あそこにいる太った女性はどうなんだ』といったら、日本語が通じた」
個人を尊重する経営思想
ホンダが、乗用車に進出しようとした際に、業界の再編を狙っていた旧通産省がホンダにオートバイ製造に留まるように主張し、対立したエピソードは広く知られている。本田の証言と井深の評価を聞くとき、技術にかけた男の意地が浮かび上がる。
「政府の命令に従うなんてできない。役人には『うちの株を買ったうえで意見をいえ』といったんだ」
「日本の(自動車メーカー)は(米国に)かなわないという。大きいものがいつまでも大きいとは限らない」
乗用車の色は当時、パトカーと消防車の色から、白と赤にすることが禁じられていた。本田は、これにも反発して真っ赤な車を販売する。
「国家が色を独占している。(戦時中は)国防色にして、いい着物をひどいデザインのモンペにした。これでは世界に出ていけない」
井深はいう。
「(本田は)役人の統制に反対したんです」
本田は、高度経済成長下で企業に社員が尽くすのをよし、とする一般的な価値観に対して、個人を尊重する経営思想を持っていた。
「働くのは自分のため、会社は幸せになる手段。会社のかげに個性が隠れたんじゃ、寂しい人間じゃないの」
「人生というのは、何度感動したかで決まる。若手を育てた気持ちはない。若いってのは素晴らしい、と感心していただけですよ」
▲「WEDGE Infinity」の新着記事などをお届けしています。