2024年4月24日(水)

ネット炎上のかけらを拾いに

2018年3月7日

「表現の自由」なら抗議する自由もある

 批判や抗議の内容は、「フェティッシュであると感じさせる内容を、子どもも利用するファッションビルであるマルイがやるのか」「セーラー服を着た子どもへの性的関心を喚起するような表現が堂々と許されていいのか」「『1000脚の中からNO.1を決める総選挙』といった企画など、女性の身体を商品のように扱っている」といったもの。

 これに対しツイッター上では「太ももが卑猥なのであれば、太ももを出して歩いている女性たちはすべて取り締まらなければいけないのか」といった反論があった。あまりにもくだらないが、ツイッター上ではこういったツイートでも大量に拡散されてしまうことがある。

 女子高生の太ももに何らかの意味を見出して撮影し、展示しているのは写真家のほうである。抗議する人たちは女子高生の太もも自体を「卑猥」と言っているわけではない。勝手な意味付けをして、それを老若男女が訪れるファッションビルで展示(もしくは告知)するなと言っている。そのように意味付けされることを「不自由」と感じるからである。

 人の身体の一部を切り取って何らかの意味付けをすること。それは表現の自由だが、表現の自由があるのであれば、その表現に疑問を持つ人が批判や抗議をすることも自由だ。「表現の自由」を声高に叫ぶ人は本来、公権力と闘うべきなのだが、今回抗議したのは市民たちであり、中止を決めたのはマルイ。どこにも公権力は存在しない。

 開催決定前に批判を予測していなかったとすればそれはマルイの判断ミスだろう。批判があることを見越して開催決定したのであれば、中止はしていないはずだ。批判に立ち向かって展示する価値があると判断すれば、そうしただろう。続行することができなかったのは公権力による圧力があったからではなく、ただの経営判断である。何が「表現の自由」か。結局、抗議と闘うほどの意味を感じている人が開催側にいないだけのことだ。

子どもに性的な意味付けをしていいのか

 もしこれが、女子小学生のブルマ写真展であれば、さすがにマルイは開催していないだろう。女子小学生と同様に女子高生も未成年であり、児童福祉法で守られる存在だ(18歳未満)。しかし日本ではなぜか、「女子高生」という存在、あるいは彼女たちが身につける制服に過剰な意味付けがされている。それは多くの場合、性的な意味付けである。あまりにも自然に、子どもが性的な視線に晒されている。もっといえば、女子高生を被写体にすればお手軽にエロや倦怠感、郷愁などを演出できるかのような風潮すらある。「ファッション」あるいは「アート」の顔をした、ただの二番煎じエロは「ふともも写真展」に限った話ではないだろう。

 あるツイッターユーザーは、女子高生だった頃、体育祭の様子を撮影しに群がるおじさんたちが気持ち悪かったとつぶやいた。制服を着た女子が電車内で痴漢のターゲットになりやすいことはよく言われている。

 性的な意味付けにうんざりしている人、あるいは今現在恐れを感じている人が現実にいる。だからこそ、アートであれ粗悪なまがい物であれ、性的な表現の展示にはゾーニングが必要であり、目立ち過ぎれば反発が起こるのは必然だ。開催側の判断ミス、これに尽きる。

  
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