幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月8日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

孔子廟を占拠する英国兵

 ある日、干物屋、八百屋、米屋、綿屋、鶏や鴨を油で揚げて売る油物屋などが犇めき、「路甚ダ狹ク臭氣甚ダシ」く「酸鼻」を極める市街を「迂曲徘徊」した後、上海南西の郊外を歩く。時折り清国の兵士に出会うが「ソノ容貌健強ナラズ」。やはり弱卒では戦場での勝利は覚束ない。畑に見えるのは「胡瓜・茄・蜀黍・夏蘿葡・冬瓜・大豆・裙帯豆・紫蘇・藜・コウライノ類」で、「田畝ノウユルモノ我國ト異ナラズ」。

 ところが、そこここに「箱アリ。長サ六七尺、ソノ數タトヘ難シ。臭氣尤モ甚ダシ。行人ニ問フニ皆棺ノヨシ。惡病流行ニテ死人多シ。故ニカクノゴトシ」。日比野も罹ったコレラは猖獗を極め、多くの死者をだしたのだ。墓石が立っているものもあるが、「中ヨリ棺ノ露スルアリ。コレ年ヘテ頽破セシナリ。〔中略〕封土短カク土肉至ツテ薄シ」と。蓋う土は薄く、やがて風雨に曝された棺は壊れ骸が露出することになる。「田畝ノウユルモノ我國ト異ナラズ」といえども、やはり葬送の様式は大いに異なっていた。こういった墓場の姿も、また文化である。

 千歳丸一行の上海滞在は夏。夥しい数の棺から腐敗臭が漏れていただろうから、「臭氣尤モ甚ダシ」となるはずだ。おぞましいばかりの風景に、日比野もまた閉口し困惑の色を隠さない。

 夥しい数の棺が放置された一帯を過ぎ、太平天国軍防衛のための清国側最前線基地を越え、さらに進む。一休みした寺の軒先で「小童書ヲヨム」。覗き込んでみると儒教古典の『論語』『中庸』だった。傍らで教えている老人に筆談で問うと、太平天国軍の襲撃を受け一家眷属を挙げて上海東方に逃れた。太平天国軍が敗退したというので戻ったが、家財から食糧までが無くなっている。その後も戦火は止むことなく、世の中は荒みきったままだ、との返事だった。どうやら太平天国軍の兵士もまた、戦争に勝てば略奪し放題という中国古来の戦争の伝統に倣っていたようだ。

 ここまで聞いて日比野は、世の中乱れ切っているのに「子孫ニ書ヲヨマセ、且質樸ニテ田舎ノヲモムキ賞スベシ」と綴る。昼食を見せてもらったが質素そのもの。だが男女の別は厳然として守られている。かくて日比野は「實ニ感ニタへタリ」と、失意の中にも泰然として生きる姿に感嘆の声を洩らす。

 再び市街に戻る。やっと孔子廟を探し当てるのだが、銃を構えた英国兵に守られていた。何とか頼んで中に入れてもらうものの孔子像は撤去され見当たらず、広い廟内は英国兵の兵営になっていた。本来そうあるべき学童の勉学の場では、「喇叭操兵ノ聲」が聞こえるだけ。かくて日比野は「狡猾な狐(太平天国軍)の駆逐を目指して李鴻章麾下の数万の兵が前線に赴き出払っている間に、上海では獰猛な虎(英国兵)が孔子廟を占拠して侵略の牙を磨いでいる。これこそ失策の最たるものだ」と慨歎の思いを記した。

日本刀に向けられた興味

 丁髷と同じように、いや、それ以上に興味を持たれたのが日本刀だった。

 ある日、友人宅に赴くと「刀子(コガタナ)ヲ出シ大ニホコリ云フ」には鋭さは如何、と。そこで日比野は笑いながら「我國刀釼ノ利」が万邦無比であることはご存じだろう、と応じた。これを聞いて気分を害した相手が、ならば刀を見せてくれ。日比野が真顔になって「我が国では、濫りに鞘を払うことを禁じている。ひとたび鞘を払えば、必ずや鮮血を呼ぶ。血を見たいのかと」と応対すると、不機嫌になった友人は押し黙り、自分の手のなかの刀子を弄り回すばかりだった。その後に日比野は、「實ニ我刀釼ハ格別ニテ、市間ノ傳言ヲ聞クニ、日本人ハ温和ニテ親シムベシ、タゞ腰間ノ物ニ近ヨルベカラズ」と書き留めている。すでに上海では、日本人は温和で親しみやすいが、ひとたび刀に手を掛けたら危険極まりないといった話が流れていたらしい。

 ある時、フランス人が近づいて来て刀を抜く手真似をしてみせる。刀を見せてくれということだろう。余りいい気持ではないが、些事に拘ってもいられないし、言葉も通じない。そこで仕方なく、「鞘ヲ半バ脱シ一人ノ面前ニイタス」。キラリと冷たく光る鋭利な日本刀に、さぞや胆を潰したらしく後ろに数歩飛び退いた。

 上海での交易の可能性を探ろうとした当初の目的は達成されなかったが、中国人の間に「日本人ハ温和ニテ親シムベシ、タゞ腰間ノ物ニ近ヨルベカラズ」とのイメージを植え付けた千歳丸の派遣は、予想外の副産物を生んでいる。その1つが、第2次アヘン戦争(1856年~60年)における英仏連合軍の戦法を知ったことだ。日比野は「余感慨ニタへズ。カノ天津ノ戰ヲ聞クニ」と、英仏軍による戦闘の様子を綴る。

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