清国こそ幕末日本を映し出す鑒(かがみ)
某日、幕府役人の従者として、オランダ人に先導され上海を司る道台の役所に向かった。もちろん道中は黒山の人だかりであるだけでなく、やはり丁髷を指さして笑う。
道台の役所では大歓待を受けたが、「酒後ニ至リ嘆息スルアリ」。片付け係の2,3人が残り物を「袂中ヘ(中略)竊入スル」のを見てしまったのだ。またまた「嗚呼野ナル哉、卑ナル哉」である。下っ端役人とはいえ、卓上の残り物を掠め取ろうなどという振る舞いは、浅ましい限り。個人も、集団も、民族も、国家も、貧すれば鈍し、鈍すれば貧するもの。矜持を忘れ、恥を棄て去れば禽獣以下と言いたいのだろうか。
道台訪問から戻った後、「徘徊」に出る。陶磁器屋に入って振り返ると黒山の人だかり。店外に出ようにも出られない。そこで「鞭」を振うと後ずさりするが、すぐに集まってきて顔を寄せられ、饐えたような体臭に取り囲まれ、臭い息を吹きかけられてしまう。そこで日比野は「扇ヲ以テ面ヲ掩フニ至ル」しかなかった。
夜、千歳丸に戻ると、通訳から「日本國ハ格別ノ國ニテ禮義ノ正シキヲ感ゼシヨシ」との道台の言葉が伝えられた。道台は心から西洋人をもてなすことはないと聞いたことから、
日比野は清国人は「我國人ヲ甚ダ戀フ趣ナリ」と記している。日本からの武士の礼儀正しい振る舞いが、道台をして「日本國ハ格別ノ國」と感嘆の声を挙げさせたに違いない。
日比野もまた劣悪な水質に言及する。上海には井戸が少なく、茶色く濁った黄浦江の水を「礬石石膏ニテ清シ吃飲スル」のだ。「已ニ晩飯ニ至リ、茶ヲ煎ジ飯ニソゝケバソノ色青緑實ニ食シガタシ」である。
水と同じように耐え難かったのが、キリスト教だった。
長江以南を抑え軍隊を上海に進めている太平天国にしても、漢族の王朝である明を再興しようというのではない。「唯邪教ヲ以テ愚民ヲ惑溺シ、遂ニ大亂ヲ醸シ災十省ニ及」んでいるのだ。にもかかわらず清国は「邪教」であるキリスト教を禁じないばかりか、布教を許し上海には3カ所の教会建設まで認めた。対外的には「洋夷」の横暴を許し、国内ではキリスト教を奉じる太平天国による騒乱に見舞われる始末だ。そのうえ、英国の軍事力に屈し、香港の割譲と上海以南沿海要衝の5港の開港を承知してしまった。
日本にとっての悪しき見本は、いま目の前にあるで清国はないか。国の護りも、財政も、ましてや先祖伝来の志操までも西欧に骨抜きにされ、いま亡国の淵に立つ清国は「近ク一水ノ外ニアリ」。まさに清国こそ幕末日本の「鑒(かがみ)」だ。このままの日本では、いずれ清国に続いて西欧のなすがままに陥ってしまう。「オソルベキナリ」。
「乱」に居て「知」を忘れず
日比野も上海での「徘徊」を大いに愉しんだ。
書店を覗く。「塵埃寸餘」の書棚に置かれた『佩文韻府』に目を止める。『佩文韻府』は清朝の康熙帝(1662年~1722年)が行った出版事業の一環であり、中国古典を網羅して編纂された語彙集である。出典が明記されているだけに、語彙の来歴を調べるうえでは最も頼りになり、詩を作る際の必携の参考書とされてきた。
「塵埃寸餘」の4文字から、当時の上海の混乱ぶりが浮かんでくる。如何に貴重な書物であれ、知識人もまた詩作に耽るなど悠長に構えてはいられなかったことだろう。そんな物情騒然とした上海の書店の書棚で埃を被った『佩文韻府』に着目したとは、日比野の、いや当時の武士の教養のほどが判ろうというもの。治に居て乱を忘れずではなく、乱に居て知を忘れず。いや、乱であればこその知というべきだろう。
この一件からだけでは余りにも飛躍した考えのように思えるが、あるいは明治維新という回天の大業をなさしめた原動力は、日比野のみならず、峯、名倉、納富のみならず、これから読むこととなる中牟田、高杉らの綴る文章の行間から時に迸り、時に染み出るように現れる《知》の力ではなかったか。己が脳髄を絞り切り、考え尽くした先の《知》である。おそらく《知》に向っての格闘がなかったら、幕末の日本は清末のようにブザマで悲惨極まりない環境に陥っていたに違いない。
某日、宿舎を訪ねて来た清国人と筆談を交わしたところ「蕃王貢使ト書」いた。天皇を「蕃王」と呼び、日比野らを朝貢使節と見下したわけだ。かくて一気に爆発する。陪席していた会津藩の林三郎と共に「詰問」した。相手は大慌てで書き直そうとしたそうだが、日比野は「ソノ紙ヲ寸分ニ破割シ地ニ擲チ刀ヲ撫シテ叱咤」した。おそらくは相手から紙片をひったくりビリビリと破り捨て、共に刀に手を掛けながら「キサマ、何を申すか~ツ」と大喝したことだろう。