2024年7月21日(日)

万葉から吹く風

2011年5月12日

 私ごとだが、長年の作家業ののち、生まれて初めて月給というものを貰ったのが島根県立大学で、あしかけ10年ほど勤めて名誉教授という面映〔おもは〕ゆい称号を頂いた。浜田市に在住しているあいだ、研究というのもおこがましいが、柿本人麻呂という謎の歌人に親しんできた。石見〔いわみ〕地方には、柿本神社が、あちこちにあり、出生伝説の残る神社もある。ただ、人麻呂は、万葉集にしか登場しない。唯一、他の文献では、石見風土記の逸文(他の文献に引用された文)とされる記録に、石見守に任官し、赴任したという記述がある。そうなると、知事クラスの重要人物であり、他の記録に登場しないのが、不思議である。万葉集には、石見地方に赴任したことが記されているが、せいぜい課長クラスだったという解釈もある。知事か、課長かによって、人麻呂の歌の解釈も、変わってくる。

 石見国府は、浜田市の上府〔かみこう〕、名勝石見畳ヶ浦の近くにあったから、知事であれ、課長であれ、人麻呂がこのあたりで勤務していたことはまちがいない。人麻呂には、石見における現地妻がいた。万葉集には、こうある。

柿本朝臣人麿〔かきのもとのあそんひとまろ〕の妻依羅娘子〔よさみのおとめ〕、人麿と相別るる歌一首

な思いと君は言えども逢わむとき
何時〔いつ〕と知りてか吾〔わ〕が恋いざらむ
                                              
(巻2-140)

 私を思わないでくれと、あなたは仰るけれど、あなたがいつ逢ってくれるのか、はっきりしていれば、こんなにまで、あなたを恋しく思わないのに。ざっと、こんな大意だろう。

柿本朝臣人麿 石見の国にありて 臨死〔みまか〕らむとする時 自ら傷〔いた〕みて作る歌一首

鴨山の岩根〔いわね〕し枕〔ま〕ける吾〔われ〕をかも
知らにと妹〔いも〕が待ちつつあらむ
                                              (巻2-223)

若き人麻呂が亡き妻を詠んだ歌が残る軽の里(奈良県橿原市) 
photo:井上博道

 人麻呂は、臨終に当たって、こう詠んでいる。この歌の大意は、自分は、鴨山の岩を枕にして、死にかけているが、そうとも知らずに、依羅娘子は、自分を待っているにちがいない、といったところだろう。

 人麻呂の臨終の地である鴨山については、斎藤茂吉は湯抱〔ゆがかえ〕温泉に、梅原猛は益田市の海中に、比定しているが、諸説あり、はっきりしない。万葉集に90首ほどの長歌、短歌を遺し、歌聖とまで謳〔うた〕われた人麻呂は、出身や身分ばかりでなく、その終焉の地も、謎のままなのだ。

 



 


   

◆ 「ひととき」2011年5月号より

 

 

 

 

 
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