明治の反知性主義が見た中国

2018年11月19日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

ビジネスで太刀打ちできない日本人

 商業は「外國との貿易」「支那大陸との貿易」「内地間の商業」「蕃人との交易」に大別される。日本からの輸入品は好評とのことだから、当時から台湾では日本贔屓の風潮がみられたことになる。だが「現今商權は全く洋人の掌握する所」であり、日本人は日本との交易にすら関与できない。「實に遺憾と云ふべし」と、長谷川は切歯扼腕する。

「支那商人の一致力に富めるは天性」は、じつは台湾でも発揮されていた。大資本家から零細業者まで資金を出し合って経営される同郷・同業組織によるビジネス・ネットワークが、台北や台南などの都市部から山間僻地に至るまで全島をくまなくカバーしている。「東洋の猶太人(=ユダヤ人)」と呼ばれる彼らは組織に参加したからには「互に其人を信用し規律嚴正秩序整然して乱れ」ることはなく、その姿は「我合資會社組織に勝るあるも劣るなきの感あり」。「變幻詐僞極なき支那民族」であるにもかかわらず「商業上信用を重ずる風習」を持つことに、長谷川は驚く。

 たとえば複雑極まりない交換レートによって行われる両替にしても、後で調べてみると全く間違いがない。だからビジネスにおいては「例の『チヤン』根性もあらざるが如し」。

 これまで文久2(1862)年に上海に乗り込んだ高杉晋作以来の日本人の記録を読み進んできたが「チヤン」の3文字は、ついぞ見かけることはなかった。ということは日清戦争前後を機にして、「變幻詐僞極ナキ支那民族」を「チヤン」と呼ぶようになったとも思える。

 日清戦争において日本軍が澎湖列島を経由して台湾本島に上陸した結果、台湾海峡の往来は断たれ、「島内の擾亂」が続き、「資本家は多く難を避け」るために島外に逃れてしまい、大打撃を受けた商業は回復の見通しは立ちそうにない。

 大陸から渡ってきた商人は「同業者一同會舘(日本の倶樂部の如し)に會合」し、「一定の價格を定め競爭賣崩し共倒れ等なきことを盟約して決して競爭をなさず」。それというのも「同業者間氣脉聯絡を通ずるの古來より慣習ありて違反せし者稀れ」だからだ。ここでいう同業会館とは建物であると同時に同業組織を指すが、共倒れを防ぐために様々な仕掛けを施していた。古くから大陸で行われてきた同業仲間の慣習が台湾でも守られていたということは、当時の台湾経済は大陸からの同業仲間によって牛耳られていたと考えられる。台湾における漢族商人仲間のネットワークは大陸の同業ネットワークにつながっていた。だから常識的に考えるなら、台湾の商圏は大陸の商圏に組み入れられていたことになる。

 銀行制度はみられず、「支那本國との間に於ける爲替の取組は主として安平在留の西洋人により營業せらる」。早くから海外に向かって開けていた中部の安平に拠点を置く西洋人が、銀行業務を握っていたようだ。

 日々のビジネスは大陸からの商人が、銀行業務に加え日本からの輸入は西洋人が押さえている。だとすると、いったい日本ビジネスは、台湾のどこから切り崩していけばいいのか。劣勢は明らかだろう。

「大商家の貸借は多く無抵當信用貸」であり、都市部での金融は専ら「典舗(質屋)」が担い、資産家であっても利用していた。そこで「我國の如く質屋へ出入するを以て貧困の看板とするが如きことなく虛心平氣にて典物をなす」のであった。つまり質屋は日本でみられるように「貧困の看板」ではなく、民間金融機関の一角に位置していたのだ。

 台北における「日本商人目下の状態」は「唯我軍人或は軍屬の需要」を頼りにしているから先細りは必至であり、安価で商売する大陸からの商人には太刀打ちできない。「一般支那人を花客とする如き物品販賣」を積極的に進めるところにこそ将来性ある。相も変わらずに日本人居留民だけを相手にする消極商法に明日はない、といったところだろう。

 長谷川の関心は木材に注がれる。

 台湾の建築用材は「各地山林より生蕃人と交渉の上伐出する」ところの「内山物」と、福建から輸入される福州杉(広葉杉)の2種に大別される。

 ここで興味深いのが漢族と山林の関係である。「支那人の山林に於けるや蓋し所謂前世の仇敵なるものなる乎」というのだ。

 じつは「臺灣の山嶽は樹木鬱蒼」とし、「山野元と多濕にして樹木の生育に適」しているにも関わらず、「支那民族の居住する境内に在りては一樹の材とすべき高木を認むること」がない。台湾名産の樟樹ですら「蕃地」に入らないと一本も手に入らない。それというのも彼ら漢族は「少しく利用あるものは直に伐採して之が後圖をなすことなし」。つまりは100年、200年先の将来を見据えるような気長な商売は真っ平ゴメン、である。樹木の成長など待ってはいられない。今さえ良ければ全て良し。やはり彼らは「後圖をなすことなし」の民族ということか。つまりは植林などという発想は、端から持ってはいなかった。

 ところが「生蕃の界に入るれば森林鬱叢として各種の良材に富」んでいる。東部の「『たんごー』蕃」の居住区は「常に支那移住民と爭闘を釀する所」ではあるが、山は深い。中央部を南北に走る山嶺は木材の無尽蔵の供給地として見込める。だから台湾の木材産業にとって最大の障害は「後圖をなすこと」のない「支那移住民」ということになる。

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