明治の反知性主義が見た中国

2018年11月19日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

先住民族から掠め取るも、客家の襲撃を恐れる漢族

「元来支那人の狡猾なる」がゆえに、「支那政府の政治に服せ」ざる「生蕃の無智に乘」じて彼らに奸計を仕掛けて「其財寶を掠め」る。「加ふるに惡吏暴官徃々詭計を弄し」て生蕃に無実の罪を着せる。そこで「生蕃の支那人を見ること仇讐」の如し。「譎詐百出其財寶を掠め」とか「惡吏暴官徃々詭計を弄し」などと記されると、やはり生蕃が漢族を「仇讐」と見做すことも納得できる。中国古来の「官逼民反(官が逼れば民は反す)」、つまり役人の苛斂誅求に人民が叛乱を起こすのは当然なのだ。これを「造反有理」という。

「化外の地」、つまり未開の地と見做す台湾においても、彼ら漢族役人は徹底して役人風を吹かせ特権を享受していた。あるいは1945年8月前後から1949年末前後(日本の敗戦から国共内戦終結)にかけて台湾に乗り込んできた国民党政府役人は、「生蕃の無智に乘」じていた「惡吏暴官」と同じだったかもしれない。彼らもまた日本統治下に在った台湾の人々に対し「徃々詭計を弄し」、「譎詐百出其財寶を掠め」たのではなかったか。かくて「生蕃の支那人を見ること仇讐」のように、本省人の外省人を「見ること仇讐」であったとしても何等の不思議はない。二度あることは三度あるの伝である。

 ところで「支那人」が一枚岩かというと、そうではなかった。じつは「客家(一に哈喀)と唱ふる種族」があるが、彼らは「一目して支那人と異なる所なし」。だが「支那人」は自分たちと「生蕃との境に居住する」ことから、彼らを「内山の客人」と呼ぶ。客家は「時として隊を結ひ支那村落を襲撃し又旅人を殺害し掠奪を行ふ」。そこで「支那人は生蕃よりも反て之れを畏れると云ふ」のである。

闘争を好むも、信義に厚い先住民族

 ここで改めて台湾における人口構成を、歴史的に簡単に整理しておきたい。

 遥かに昔、黒潮に乗った一群が南洋方面から渡来する。その後、日本やオランダなどが上陸した時代もある。やがて17世紀半ばの明代と清代の交代期になると、中国人と平戸の漁師の娘との間に生まれた鄭成功が反清朝の旗を掲げ、台湾海峡を渡り抵抗政権を築く。この時、鄭成功ゆかりの福建南部(閩南)からの一群が台湾海峡に面した肥沃な平地に闖入し、先住民族を中部の山岳地帯に追いやっただけでなく、彼らを蕃族と呼び蔑んだ。かくて蕃族に対する漢化がはじまる。漢化を受け入れた一群を「熟蕃」、漢化を拒否した一群を「生蕃」と呼び分け、「譎詐百出其財寶を掠め」はじめる。

 清代に入ると、福建・広東・江西の3省が接する山岳地帯に住む客家の一群が新天地を求めてやってきたが、閩南出身者が占めた肥沃な平地と先住民族の住む高地の間に位置する山裾の無主の空き地に落ち着く。かくして清朝半ば以降、台湾を西から東へ閩南人(平地)、客家(山裾)、熟蕃・生蕃(高地)という住み分けがみられるようになった。

 中国本土でも広東人は福建人をバカにし、福建人は広東人を嫌っていた。だが奇妙なことに福建人も広東人も客家を蔑んだ。自らの生活・財産を防衛するため、他郷人からの攻撃に備えた。その柱が同郷人による集団居住(=同郷人集落)である。かくして「徃々爭闘を起して戰血を各部落の間に流すこと」が半ば常態化する。この武器を執った「械闘」と呼ばれる闘争・防衛方法は、彼らの故地である福建・広東で殊に盛んだった。

「徃々爭闘を起して戰血を各部落の間に流すこと」とは械闘が海峡を越えて台湾に渡った証拠と思えるが、台湾の場合、「支那人」の間の械闘に加え、支那人による先住民に対する攻撃が加わるわけだから、「戰血を各部落の間に流す」という状態が頻発したはずだ。

 半世紀に及んだ日本統治の時代、こういった混乱した状態を改め、台湾の近代化に努めた。だが戦に敗れ1945年に日本人は去る。やがて国共内戦に敗北した国民党政権が外省人と呼ばれる多くの人々を引き連れ逃げ込み、大陸反攻の旗を掲げ蔣介石独裁の時代となる。外省人の「惡吏暴官」は「徃々詭計を弄」し私利私欲のままに振る舞い、日本統治時代を過ごした本省人を痛めつけ、癒し難い禍根を遺す。いまにも禍根を残す省籍対立である。

「蕃人は性極めて爭闘を好み最も強健なるもの」で「殺伐なり」ではあるが、「信義の見るべきものなきにあらず」。「違約等一たひ彼等の感情を害するときは終生之れを敵として信用せす」。「必す復讐を忘るゝこと」はない。だが互いに心を通わせ信頼するようになれば「兄弟」と呼び「親善至らざるなし」となる。

 彼らが「性極めて爭闘を好」み、「支那人を見るときは其肉を割き其骨を嚙て甘心せんと欲するものゝ如し」となったのは、それなりの理由――「元来支那人の狡猾なる」振る舞い――があったわけだ。「性極めて爭闘を好」む彼らだが、日本人や西洋人に対しては「頗る温順にして毫も敵意を狹ます」。「殊に南部生蕃は明治七年役の紀念により徃々我内地人を視るに兄弟を以てし熱心なる敬意を表すもの」であった。

 明治7(1874)年の年表を繰ってみると、2月に大久保利通・大隈重信によって台湾出兵が決定され、4月には台湾蕃地事務都督に任ぜられた西郷従道が3600の兵を率いて台湾討伐に出兵した。5月に上陸した台湾征伐軍は「二蕃十八社」を降し、9月には清国との間で天津条約が結ばれ、暮れも押し詰まった12月27日、台湾征伐軍が東京に凱旋し、西郷従道、谷干城ら指揮官は皇居に参内し台湾征伐の情況を明治天皇に奏上している。

 台湾出兵の発端は、明治4(1871)年10月に発生した台湾南部に漂着し救助を求めた琉球御用船乗組員66人(総勢69人。うち3人は溺死とされる)を先住民のパイワン族が拉致し、54人を殺害した事件にある。国内では木戸孝允による出兵反対、国際的にはイギリスの介入などがあり、明治政府の台湾政策の方向を定めたと考えられるが、ここでは台湾出兵に就いての評価は後日の宿題としておく。

 但し、出兵から20余年が過ぎた頃、長谷川が「南部生蕃は明治七年役の紀念により徃々我内地人を視るに兄弟を以てし熱心なる敬意を表すものあり」と書き留めるほどであった点には、やはり注目しておきたい。

 長谷川は生蕃と「『チャン』人種」を比較しているが、その主だったものを列記する。

●「彼蕃人は『チャン』人種に比し正實撲直の精神あり」

●(西郷従道が「生蕃頭目」に謝礼をしようとすると)「深く謝して國旗其他を感謝拝受するも金員を拝受する理由なし故に之れは更に返上すると固辭して受けず其の氣概ある『チャン』人種の及ふべきにあらず」

●(日本側担当者の意見に耳を傾ける)「彼等の行爲は嚴格深重起立の儘席次を亂すものなし其命令の能く行はるゝ『チャン』人種の比にあらず」

●(彼らの家は)「一見内地田舎最下等の貧人の家屋の如し然れども内部は支那土人と異なり多く不潔を見す」

●「蕃人と支那人との紛議は奸猾貪欲なる支那人か彼等の無識に乘し詐術瞞着を逞ふしたる結果なるに過きさるなり」

 長谷川は「概して驃悍無謀にして殺戮を好み極めて復讐の念盛」んな彼らだが、「信實誠意を以て」接すれば、誠意を返してくれる。だが、「若し言を食み約を違」えたなら「忽ち激怒して殺戮亂暴至」る。可能な限り多数の「首を捕獲し以て己の名譽となすは彼等一般の風習」である。男は漁猟を、女は織縫に務め、人頭を供へて神を祀り、繩を結んで契約とするなどの点から「恰も大古の民に酷似」する「蕃人の性質」を総括している。

 なお彼らとの交渉に当たっては高飛車にでる「支那人」を介してはならない。長谷川が記す教訓である。

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