私は作業員を見た。彼は手を後ろに組んで私たちを見ていた。
それから兄弟3人で母の遺骨を父の骨壺の中へと移した。父の骨の上にふんわりと母の骨を乗せると、あたかも骨壺の中で、父が母を抱きとめているように思えた。
「一緒にできてよかった。埋葬してください」
作業員は2つの名札を一緒に絡め、墓の後ろの穴の中へ一つになった2人の骨壺を納めた。
全員で花と線香を手向け、合掌した。
大学中退とクリスマス
長男である私は母との思い出もそれだけ多い。何度も心配をさせたり迷惑をかけたりしたが、直ちに思い浮かぶのは大学中退を決めた夜の光景だ。
父の説得に応じず「どうしても辞める」と言い張ると、本来温厚な父が激昂した。
「じゃあ家を出て行け! 勘当だ!」
すると、それまで風呂場で息を潜めていた母が半裸同然の姿で跳び出してきて、「行かないで! もう一度お父さんと話して!」と私の腰に泣きながらしがみついたのだ。
その時私は、母を振り払えなかった(結局、家は出て、大学も辞めたのだが)。
もう一つ浮かんだのは、時季が12月だからか、子ども時代のクリスマスのことだ。
私が生まれた山陰の小さな町で、隣県出身の母は「他所からきたお嫁さん」。
モンペ姿の地元の母親たちと違い、「新しい人」だった。
近所の母子を集め、我が家で〈幻燈会〉を開いたことがあった。台所に栄養の成分表を貼り、子どもたちに栄養バランスの大切さを説いた。朝食にパンを食べたのも、ヤギ乳を定期的に飲んだのも、たぶん我が家が最初だ。
それで小学校3年の12月、私は母に聞いたのだ。
「ウチにクリスマス・プレゼントくる?」
「プレゼントって?」
「クリスマスの夜に子どもがプレゼントもらうって、雑誌に出てた。子どもが欲しがってるものがもらえるらしいよ」
母は非常に困った表情を見せた。
日本がまだ高度経済成長を開始する前のことである。我が家も隣近所も基本的に貧しかった。クリスマス云々は遠い都会の一部の家のことで、田舎の師走とは無関係だった。
私が漫画雑誌やラジオなどで断片的に見聞きしただけのことである。
12月25日の朝、私が起きると、枕元に「プレゼント」があった。用意した靴下の上に置かれていたのは、小さな袋入り甘納豆……。
私が母(や父)に何かを「買って」と言わなくなったのは、その時以降だと思う。
思えば随分たくさんのことを親から教えてもらった。母からは特に、言葉以外の表情や姿勢を通して教えられた気がする。
両親も我々も全人類も、つまるところ「宇宙の塵」から生まれ「宇宙の塵」へと帰る。その意味では、墓も遺骨も個々の人生も一時的な「借り物」にすぎないが、なぜか骨と化した親の前で手を合わせると、身が引き締まる思いがする。
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