1865(元治2)年3月、長崎の外国人居留地に建設された大浦天主堂のフランス人神父プチジャンのもとへ十数人の日本人が訪ねてきた。1人の女性がこう告げた。
「私たちの心はあなたの心と同じです」
彼らは浦上地区の潜伏キリシタンだった。
この神父と日本人集団との出会いが、世界宗教史上の奇跡と称される、徳川幕府の禁教令(1614年)以来約250年ぶりの「信徒発見」である。
今年6月30日、〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産〉(長崎、熊本両県)が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
島原・天草の乱(1637年)の舞台だった原城跡、現存する国内最古の教会・大浦天主堂、禁教下で信徒たちが暮らした黒島の集落(佐世保市)、野崎島の集落跡(小値賀町)など12の構成遺産だ。
新たな地域振興の幕開けとなる明るいニュースであり、誠に喜ばしい限りだ。
ただし、今後世界遺産登録地域を訪ねるにあたって留意しておきたいことがある。
長年この地域のキリシタンについて研究してきた宮崎賢太郎氏が、2月刊行の著書『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)の中で繰り返し指摘した点だ。
今回の世界遺産登録前に、運動を盛り上げるため、「(潜伏キリシタンは)仏教を隠れ蓑(みの)として命がけで信仰を守り通した」というキャッチコピーが地元でさかんに使われた。迫害され、殉教した、敬虔な信徒たち。「愛とロマン」の長崎歴史物語、というわけだ。
だが、史実は違う、と宮崎氏は言う。
そもそも一般民衆は、自発的に信徒になったのではない。大村純忠など領主がキリシタンになったが故の強制的な集団改宗だった。
当時の民衆の大多数は読み書きができなかった。そんな彼らが、運よく宣教師に会えたにせよ、異国の馬小屋に生まれ、何の罪かで十字架の上で殺された人物が、この世で唯一絶対の神の子であると、なぜ信じられたのか?家代々の神仏を否定してまで信仰できたのか?
宮崎氏は、潜伏キリシタンが守り通したのはキリスト教信仰ではなく、先祖が大事にしてきた異国渡来の何やらありがたい神。神仏の御利益に加えたさらなる御利益神、と見る。
例証の一つが、伝承されたオラショ(祈祷文)の中で、ラテン語のパライゾ(天国)が「パライゾウ様」、同じくエクレシア(教会)が「エンケレンジャ様」など、神様化していること。祈りというよりも呪文なのだ。
現に、「奇跡」を体験したプチジャン神父自身、書簡の中で「彼らは“パーテル ノ ナキ コンヒソン(司祭のいない告解)”を、全然意味を理解せず誦えている」と記している(従って宮崎氏は、「信徒発見」の劇的な物語をプチジャン神父の自作自演と推察する)。
このように指摘されると納得するのは、私も16年前の五島列島の取材(教会巡りの旅)で、キリシタン史に疑問を感じたからだ。
五島列島の上五島(中通島、福江島)と下五島(奈留島、久賀島、福江島)には、当時で50棟の教会があった。入江や岬や山の中腹など、辺鄙な場所に建つ小さく美しい教会。
五島は長崎、平戸、外海などと並ぶ潜伏キリシタンの居住地域だったので、明治になって解禁後、住民のカトリック信者が建てた。
ところが、五島(平戸、外海も)には、多くのカトリック信者とは別に、解禁後も潜伏キリシタン以来の信仰を捨てない「カクレキリシタン」と呼ばれる小集団もあるのだ。
私が会った15戸の帳方(ちょうかた=リーダー)によると、彼らは教会には行かず、寺とも距離を置き、意味は判然としないが先祖伝来のオラショを唱え、昔ながらの日繰り(ひぐり=教会暦)に従って年間の祭事を執り行っていた。
私が彼らの存在を奇妙に思ったのは、あるカトリック信者がこう言ったからだ。
「カクレキリシタンの人たち? 違和感あります。私たちとは全然別の宗教みたいな」
キリスト教の奥義である「三位一体(神・キリスト・聖霊の3つが独立しながら一体の神であること)」の概念がカクレキリシタンにはないのだから、当然であろう。