2024年4月24日(水)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2018年7月28日

 けれど、そんなカトリック信者も禁教時代の潜伏キリシタンの殉教には涙する。

キリスト教解禁に対抗するため練り上げられた国家神道

 大規模な信徒弾圧を「崩れ」と呼ぶが、五島の久賀島には1868(明治元)年に発生した「五島崩れ」があった。浦上の「信徒発見」後に五島からも信徒が長崎に渡り、一時的な復活の末、新政府に弾圧されたのだ。

 跡地に牢屋の窄(さこ)殉教記念聖堂が建つ。ここで6坪の牢屋に信徒約200人が入れられ(畳1枚に17人!)、連日苛酷な拷問を受けて、8カ月後までに42人が死んだ。「浦上教徒流配事件(信徒3394人が20藩に分かれて流罪処分、流配中に662人死亡)」と並ぶ「信徒発見」後の大弾圧である。

 結局、キリシタン禁制の高札が撤去される1873(明治6)年まで日本国内の迫害は続いた。
なぜキリスト教解禁はそこまで遅れたのか?

 これまでは、徳川時代と変わらぬ弾圧が各国公使の抗議を受け、特に1871年出発の岩倉使節団が欧米各地で激しく非難されたために、キリシタン禁制が条約改正交渉の妨げになると明治政府が(遅まきながら?)決断した、と見なされてきた。

 しかし安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)を読むと、そんなに単純ではない。

 薩長中心の維新政府は神道国教主義による祭政一致を基本方針とし、政権発足当初より神仏分離と廃仏毀釈を推進してきた。

 そこへ長崎各地での大量の信徒出現と、棄教を拒否する熱烈な信仰告白である。開国は揺るがせないが、神道国教化を台無しにしかねないキリスト教普及は断固阻止、だった。

 「明治初年から三年ごろまでの情勢のなかでは、キリスト教への危機意識は、神道国教主義への昂揚とはほとんど直結していた」(同書)

 新政府によるキリシタン弾圧は、慣例遵守などではなく、相当に意図的だったのだ。

 他方で政府は、国家神道の整備を急いだ。

  • 皇祖皇統と国家の功臣を神として祀る。
  • 頂点に宮中祭祀と伊勢神宮を置き、中間に各地の官・国幣社、底辺に村々の産土(うぶすな)社を据え、宗教を再編し国家に帰属させる。

 この過程で、明治天皇は1869(明治2)年に歴代天皇の中で初めて伊勢神宮を参拝し、東京九段に東京招魂社(後の靖国神社)の仮神殿が作られ、やがて幕末期以来の国事に倒れた人々の霊が神道式に慰霊された。

 その上で明治政府は、国家神道は「宗教ではない」!?として「信教の自由」を掲げた。

 〈日本臣民ハ、安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於イテ、信教ノ自由ヲ有ス〉(大日本帝国憲法第二十八条)

 諸宗教を超越した国家神道。その下での各種宗教の「信教の自由」。それが、世界宗教であるキリスト教に負けない「文明開化」「富国強兵」日本の、近代国家としての基礎であり出発点だった。

 私たちは今でも、初詣には近くの神社ではなく有名神社に出かける。旧い由来のありそうな神前結婚式も人気がある。戦死者の遺族は特に抵抗もなく靖国神社に参拝……。いずれも実行をためらうと何か落ち着かないが、実はこれらすべては明治時代に作られた。

 キリスト教解禁に対抗するため練り上げられた国家神道が、今も影響を及ぼしているのだ。

 「日本の場合、近代的民族国家の形成過程は、人々の生活や意識の様式をとりわけ過剰同調型のものにつくりかえていった」

 著者の安丸氏の指摘はとても鋭い。

  
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