「野分(のわき)」とは、秋の暴風のこと。野の草を吹き分けるほどの強い風の意だ。
〈大いなるものが過ぎ行く野分かな〉 高浜虚子
朝夕がめっきり涼しくなった強風の次の日、外に出てしばらく庭を眺めた。
家庭菜園のミニトマトやパプリカの株、キュウリやゴーヤの棚などは取り払ったので、畑の跡を含めてそこら中が雑草である。
雑草に移り変わりがあるのは知っていたが、今年目立つのは断然エノコログサ(別名ネコジャラシ)だ。風で吹き倒れている草が多い中で、この草の群落のみがまっすぐだ。
雑草生態学の稲垣栄洋さんの『植物はなぜ動かないのか』(ちくまプリマー新書)によれば、イネ科のエノコログサは高温や乾燥に対して特に強いC⁴植物、とのこと。
C⁴植物は、気孔を開いた時に取り込んだ炭素を濃縮できるため、一般的なC³植物よりもたくさんの二酸化炭素を吸入できる。つまり、それだけ気孔の開く回数を少なくして水分の蒸発を抑えることが可能。ターボエンジン並みの高性能な光合成を行えるのだ。
昨年までのエノコログサの勢力は大したことなかったから、今年の夏の暑さと乾燥の具合がC⁴植物に丁度よかったのだろう。
この夏、金足農高の甲子園での活躍で「雑草魂」が脚光を浴びた。この場合の雑草は、路傍の、踏まれても挫けぬ強い草、を指す。
けれど稲垣さんによると、雑草とは本来「弱い植物」なのである。
強い植物なら生存競争の激しい森林で生き残れる。だが雑草は、森林や深い藪(やぶ)では生きられず、危険と隣り合わせで他の植物が入ってこない道路、道ばた、荒れ地、斜面、畑などをあえて生息域として選ぶ。
うちの庭でも歩く場所にオオバコやタンポポが茎を横にして生え、種をつけている。
でもこれは、「踏まれても立ち上がっている」わけではない。「踏まれても立つ」「立ち上がってほしい」というのは人間の幻想で、人間や動物に踏まれる場所を生息域に選んだ植物は、葉を踏まれることにより刺激を受け、最初から茎を横に伸ばしているにすぎない。
植物の一番の目的は、花を咲かせ種を残すこと。そのために、踏まれて立ち上がるのは余分なエネルギーの消耗だ。それより、踏まれることを前提とした成長の方がいい。
これは「弱い植物」である雑草なりの「弱者の戦略」と言える。
稲垣さんは、そのものズバリの『弱者の戦略』(新潮選書)という本も書いている。
生物界は弱肉強食の熾烈な戦争社会だが、強い者が必ずしも生き残るとは限らない。食物連鎖で強い者に捕食される弱者には、弱者なりの生き残り戦略がある、という主張だ。
すべての生物は自分だけのニッチを持つ。
マーケティング用語のニッチは「すきま(市場)」のことだが、生物学では「生態的地位(ある生物が生息する範囲の環境)」を指す言葉である。
目の前の生き物は、動物であろうと植物であろうと、自分だけのニッチ、居場所を見つけて確保した「成功者」と言える(当然のことだが、周囲の環境は刻々変化するので、自分のニッチを奪われないよう、また得たニッチを拡げるよう、生きる限り闘いは続く)。