2024年12月5日(木)

田部康喜のTV読本

2019年1月10日

五輪にかける人々の人生が織りなすドラマに期待

 もうひとりの主役が、12年ストックホルム大会にマラソンで出場した、金栗四三(中村勘九郎)である。東京高等師範学校の学生だった。

 11年(明治44年)11月19日、ストックホルム大会に派遣する選手を選考する大運動会が、京浜電鉄がレジャーランドに予定していた土地を400m走ができる競技場に整備した「羽田競技場」。講道館の創始者である東京高等師範学校の校長の嘉納治五郎(役所広司)が企画したものだった。嘉納は駐日フランス大使を通じて、日本の五輪参加を要請されて、自らが引き受けたのだった。

 大運動会は、途中から土砂降りの雨となった。マラソン大会に出場した選手たちは、次々に棄権していった。参加資格は中学校卒業が前提だったが、嘉納がひいきにしている車引きの小学校卒の清さん(峯田和伸)が胸に「早せ田」ゼッケンをつけて走っているのが微笑を誘う。嘉納役の役所広司は日本を代表する本格派俳優であるが、三谷幸喜脚本・監督の一連の喜劇映画でもたっしゃな演技をこなしてきた。

 雨のなかをひとりの選手がゴールを目指して走ってくる。嘉納が叫ぶ。「来た!」「韋駄天(いだてんだ)!」

 ゼッケン51番から、東京高等師範学校の生徒である金栗四三であることがわかる。

 「いたぞ!いだてん」「かれこそいだてんだ!」

 記録は2時間32分。当時の世界新記録である。

 大運動会の記者発表会で、嘉納は世界新記録がでなかった場合は、五輪出場を辞退するといっていたのである。

 嘉納はアジア初のIOC委員として、東京五輪の招致を目指すようになる。40年東京大会の開催都市の投票で勝利するが、この大会は第2次世界大戦によって見送られた。38年カイロにおけるIOC総会後の帰路の船中で死去した。それを看取ったのが、64年五輪の招致のプレゼンテーションをした、平沢和重だった。

 五輪にかける人々の人生が織りなすドラマに期待したい。

  
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