「微博」には「金銭至上主義で道徳を失った」との書き込みが相次いだ。毛沢東時代には貧しいものの、「為人民服務」(人民のために奉仕する)という精神が表面的には残っていた。しかし改革・開放で経済成長が続き、カネや自分がすべてとなった今、「中国には新たな道徳はまだ確立していない」と筆者に言い切る知識人もいた。
魯迅が憂えた中国人 他人のことは我関せず?
近代中国を代表する作家・魯迅は、仙台に留学していた際の話を書いた作品「藤野先生」で「中国人」への深い懸念を描いている。有名な「幻灯事件」である。授業のニューススライドで中国人が銃殺される場面を見せられるのだが、銃殺される同胞を冷ややかに見るだけの中国人の姿に衝撃を受ける。魯迅はこれまで学んできた医学で中国を救うのは難しいと痛感し、退学して文学者を目指すのだ。
「小悦悦事件」を見ると、他人のことには我関せずの中国人の本質は変わっていないように見える。しかし筆者はそうなのだろうかと考えてしまう。北京で生活していて、例えば地下鉄やバスで老人や赤ちゃん連れの母親を見ると、すぐに席を譲る若者たちの姿をよく見るからだ。日本人よりもはるかに老人や赤ちゃんに優しいと感じるのは筆者だけではないはずだ。
かたや、5億人を超えるネット人口を抱える中国で「囲観」という言葉が流行している。もともとの意味は「野次馬見物」だが、ある社会問題が発生し、微博などネット上で意見をぶつけたり、情報を転送するなどしたりして関与して社会を変えていこうという試みだ。「囲観」に参加する網民(ネットユーザー)の動向を取材していて、彼ら彼女らが決して他人や社会に無関心とは思えない。
懲罰めぐり冷静な議論
「小悦悦事件」でも、若者を中心に多くの国民が、小悦悦の奇跡の回復を祈り、9日間もがんばり続けた彼女の容体について固唾を飲んで見守った。小悦悦が息を引き取った直後、微博ではこんな書き込みが相次いだ。
「われわれは、小悦悦が天国の道を楽しく歩くよう祈っています」
「われわれはこの薄情な通行人を責める際、まず自分を見つめなければいけない。自分が19分の1になるのではないか」
一方で、過熱した世論が一つの方向に向かうのが中国社会の難点である。その代表的な例が、「小悦悦は道徳欠如社会の犠牲者だ」という「微博」への書き込みに表れている。この事件への関心を高める若者らの批判の矛先は、小悦悦をひいた運転手ではなく、素通りした18人に集中している。
広東省では「見て見ぬふり」行為が、懲罰に当たるかどうか検討を始めた。しかしそれに対して何が何でも処罰というのではなく、こうした風潮に警鐘を鳴らす冷静な議論が展開されていることに注目したい。