「過失がないにもかかわらず、社会道徳問題を刑法や立法を通じて解決するのには賛成できない」と語るのは北京の人権派弁護士・李方平だ。道徳の欠如を司法で判断すると、社会はさらに複雑化するという考えだ。専門家や知識人が熱くなる議論を客観的に判断し、現実的な方向に導くオピニオンリーダーが存在感を高めているのも、中国社会の進歩だろう。
一方、「薄情社会」から「道徳社会」へ転換しようと試みたのが、遅夙生、胡益華ら有名弁護士約20人だ。「冷漠(薄情)停止連盟」を立ち上げたと「微博」で宣言したのだ。他人を助けようとしないのは、自分に疑いの目が向けられるのを避けようとする人が多いからだが、そこには公正さに欠ける司法への不信感が存在する。
そこで弁護士は「連盟」を発足させ、困っている人の手助けをして万が一疑いが掛けられれば、無料で法律面での支援を行うことにしたのだ。
事の本質は国家体制の問題
このように中国社会では小悦悦事件を契機に、一人ひとりが「道徳」と向き合っている。改革派として知られる広東省の汪洋共産党委員会書記(共産党政治局員)は20日、「小悦悦事件」についてこう訴えた。
「物質の貧乏が社会主義ではなく、精神の空虚も社会主義ではない。道徳の堕落はさらに社会主義ではなく、悲劇の発生は、長期にわたるわれわれの発展方式の上に存在する弊害を反映したものだ」(22日付『広州日報』)
汪洋は道徳の堕落と、中国国家体制は無関係で、事の本質は中国の発展方式の問題だと言いたいのだが、「微博」の書き込みは率直かつ厳しいものだ。
「どんどん起こる類似の事件は、社会の責任と民衆の良心に大きな問題が起こっていることを説明している。われわれは5000年の文化を持つ大国だ。どうしてこうなるのか。事件の本質はわれわれの国家体制、社会体制、教育体制など長期的に存在する問題にあるのだ」
若者たちが「小悦悦事件」に無関心にならず、事件を18人だけの問題ではなく、自分たちの問題、そして中国社会全体、ひいては国家体制の問題としてとらえたのは中国社会の変化と言える。むしろ、「道徳欠如」に批判を集中させ、国家体制に若者たちが批判の矛先が向かないようコントロールしている共産党・政府は、問題をすり替えているように思えてならない。
中南財経政法大学の喬新生教授は「管理型政府からサービス型政府に変えることで初めて、根本的な薄情社会を転換することができる」(25日付『北京晨報』)と指摘した。民衆の問題まで政府が介入して管理を強める現在の共産党主導の社会ではなく、民衆の問題は民衆の手で解決する市民社会を構築してこそ、市民一人ひとりが社会に責任を持つように変わるだろう。市民への介入や管理を強め、成熟した市民社会の発展を阻む共産党・政府は、自ら「道徳欠如社会」を作り出しているのであり、市民がそれぞれ社会に責任を持つ社会に変えることが「小悦悦事件」の悲劇を繰り返さない近道ではないだろうか。