永享元年(1429)9月24日、室町幕府6代将軍の足利義教は沈香(蘭奢待?)を2寸ずつ2つ切り取った。これは父である3代将軍義満の先例を踏襲したもので、義教の子である8代将軍義政は、蘭奢待と紅沈をそれぞれ1寸4分四方2つ、それは天皇と自分のために、そして5分四方1つを世話になった東大寺別当のために切った。
こうしてみると、蘭奢待だけではなく紅沈にも切った先例があったわけだが、信長は蘭奢待しか切らなかった。そのあと信長は正倉院の倉のなかに入り、さらに大仏に参詣したが、その路次で家臣(佐久間衛門)を遣わし、天下無双の名香である紅沈を端の倉である北倉ではなく、蘭奢待と同じく中倉に入れたらどうかとアドバイスしている。
権力にまかせて蘭奢待を強引に切ったというイメージが一般にはあるが、ここでの信長の行動はとても丁重で、すぐれた美意識をもつ目利きであった信長の本領をうかがうことができる。
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14年前の正倉院展で蘭奢待が展示された時のことも忘れがたい。
奈良の薬師寺の住職である高田好胤さんが正倉院展に来られた。そのころ好胤さんは体を悪くして、入退院を繰り返していた。閉館の時刻まで間がなく、蘭奢待は最後のケースに置かれていたので、ご案内する側とすれば、なるべく急ごうとするのだが、好胤さんはひとつひとつの宝物を慈しむようにいつまでも見続けておられた。それがこの世で好胤さんにお会いした最後の機会となった。
お香は「かぐ」とは言わず、「聞く」と言う。音と同じである。大切な音を聞く時には耳を澄ます。大切なお香を聞く時には、きっと心を澄ますのがいいのだろう。
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天平勝宝(756)5月2日、聖武天皇がお亡くなりになった。お后である光明皇后は、天皇が大切にしていた品々を大仏さまに献納した。正倉院宝物はこうして誕生した。
なぜ、光明皇后はそれらの品々を大仏さまに献納したのだろうか。 夫の遺愛の品々を、妻は手元に残して大切にするのが普通だろう。しかし、光明皇后は手元に何ひとつ残さなかった。それはなぜなのか。
光明皇后はその理由を、品々に添えたリストの最後に書き残してくれている。「触目崩摧」、目に触れると崩れ摧(くだ)けてしまう。
それらが手元にあり、目に触れると、聖武天皇が元気だった昔のことが思い出される。何年かすれば、あるいは懐かしい思い出になったかもしれないが、その時の光明皇后にとってはただ辛いだけ。その悲しみに耐えきれず、心が崩れ摧けてしまう。それならば、思い切ってすべてを大仏さまに献納し、天皇の冥福を祈ろう。
献納したのは悲しみに耐えられなかったから。光明皇后の深い悲しみのおかげで、聖武天皇遺愛の品々は現代に伝えられた。