足立倫行のプレミアムエッセイ

2019年4月27日

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山上憶良の歌も要検討

 旅人と並び立つ山上憶良の歌も要検討だ。

 旅人より2年ほど前に筑前守(福岡県知事)になった憶良は、亡妻の歌を旅人に代わって謹上し、上司の旅人と親交を結んだとされる。だが、歌人としての資質は全然違う。

 浮き足立った旅人の讃酒歌13首の前に置かれているのが、例の〈憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ〉だ。

 この歌を子煩悩な憶良の宴席中途退出時の歌ではなく、終宴時のユーモアと見る向きもある。けれど憶良は旅人の「酒こそ無上の宝」の歌に対しても、〈(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも〉と旅人とはまったく異なる「宝」の概念を表現している(なお、憶良の子どもの歌を追って行くと、70歳前後ながら少なくとも幼い息子が一人いて、その子を晩年に亡くしたとしか思えない)。

 庶民階級出身の憶良が筑前守まで出世したのは、42歳の時に遣唐使の随員として渡唐した(2~3年滞在?)経歴のためだが、位階は生涯貴族中最下位の従五位下のままだった。赴任時に正三位、帰京後は従二位まで昇進したエリートの旅人とはとても比較にならない。

 だからこそと言うべきか、憶良は前代未聞の長歌「貧窮問答歌」を残している。

 「ありったけの着物を重ね着してもなお寒い夜、私より貧しい人はどうしているか?」「ボロを引っかけ、火の気も食物もない土間で家族寄り添って嘆くが、それでも笞を持った村長が税を取り立てに寝床まで乗り込んでくる」……。貧者が別の極貧者に問答する形で、当時の地方農民の窮状を訴えた。「今の世を生きるのはかくも苦しいのか!」と。

 本邦初の抵抗詩(社会派ルポ?)である。

 中国を模倣した律令国家は大宝元(701)年の大宝律令で体裁が整ったものの、欠陥が多かった。班給の公文田は常に不足し、貴族や寺社の農民使役は苛烈だった。さらに兵役があり、庸調(地方の産品等)を都へ運ぶにも食料などは自弁。疫病や飢饉が頻発して、全国で農民の逃亡・離散が相次いでいた。

 奈良時代の人口は推定550万人、うち官吏が1万人、五位以上の貴族はせいぜい100人程度。そんな特権階級の内部で政争を繰り返し、左遷されても贅沢な酒宴を何度も開き、異国趣味に浸って「竹林の七賢」に憧れたり帰京を熱望していた「筑紫歌壇」の人々。憶良も帰京は願ったが社会・現実観が際立っていた。他にもう一人か二人、そのような歌人がいれば後世の評価も違ったはず。

 ともあれ、今回政府がこだわった「国書」の出典の舞台を検証してみると、必ずしも「(我が国の)悠久の歴史、薫り高き文化」(安倍首相)と呼べない様相が見えてくる。

 〈世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば〉山上憶良

  
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