2024年12月22日(日)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2019年4月27日

(aphotostory/gettyimages)

 新元号「令和」は、奈良時代の大宰帥(だざいのそち 長官)の大伴旅人が梅花の宴を開いた際の、『万葉集』に収められた32首の歌の序文(漢文)から採られている。

 〈初春令月、気淑風和〉(初春のこの良い月に、空気は快く風はやわらか)

 春の訪れを喜び、(歌を詠んで)和やかに楽しもう……。元号は縁起のいい字の組み合わせだから当然だが、誠にめでたい漢字だ。

 その梅花の宴の場所、旅人の邸宅の地とされるのが、福岡県太宰府市の坂本八幡宮。

 TVニュースによると、新元号発表以来それまで閑散としていた境内に大挙して人が押し寄せるようになり、地元では「令和」ゆかりの地として観光整備に大わらわ、らしい。

 私は坂本八幡宮に行ったことはないが、少し南の大宰府政庁跡は訪れたことがある。

 現在は歌碑や楚石のレプリカが残るだけの広大な空間だが、旅人が長官だった頃は平城京の朝堂院形式の壮麗な建物群があった。

 政庁跡の出土資料を集めた傍らの大宰府展示館には、旅人の開催した梅花の宴を博多人形によって再現したコーナーがある。

 天平2(730)年正月13日の宴席につどったのは、山上憶良(筑前国守)、沙弥(しゃみ)満誓(造観世音寺別当)、小野老(おゆ)(大宰小式)ら配下の官人32人で、『万葉集』に多くの歌を残した彼らは後に「筑紫歌壇」と称された。

 日本で最初に形成された文芸サロンである。

 そこで、『万葉集』関連の本を多少漁って、詠まれた歌とサロンの実態を探ってみた。

 まずわかるのは、筑紫で詠まれた歌約320首及び関係する歌約57首(巻三、巻五などが中心)は、大半が、旅人が大宰府に赴任していた神亀4(727)年から天平2(730)年までとその前後、わずか数年間に集中していることである。

 特に極端なのが歌壇の中心人物の旅人。70余首のうち大宰府時代以前に詠んだのは2首のみ、残りは大宰府時代とその直後のものだ。

 梅花の宴で旅人が詠んだのが次の歌。

〈我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも〉(我が家の庭に白梅の花が散る、あれは空から雪が降ってくるのか)

 白梅を雪に見立てたのが「漢詩文の教養」とされるが、早い話が中国詩の物真似である(そもそも大陸渡来の梅を愛でて詩歌を詠む宴自体が、当時最先端の異国趣味だった)。

 『万葉集』所収の旅人の歌と言えば、亡妻の歌と酒を誉める歌の方が有名である。

 旅人の妻・大伴郎女(いらつめ)は筑紫に赴任後間もなく病死しており、旅人は何首も哀悼歌を詠んだ。

 巻三に収められた讃酒歌13首は異彩を放つ。だが余興というより多分に「捨て鉢」である。

 「酒を飲まない人は猿に似ている」とか「中途半ぱな人間より酒壺になりたい」

 とか、「今が楽しければ来世は虫でも鳥でも」とか。

 妻を失った悲しみから刹那的な酒の快楽へ、という感情の揺れが旅人には窺えるが、さらにもう一つ「左遷の悔しさ」も加わる。

 大宰府は西海道(九州)諸国を管轄し外交、防衛をも担う重要な地方官庁だったが、同時に都から遠く離れた左遷の地でもあった。


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