グラフィックデザイナーの道へ
廣村がサインデザインという分野を自らの仕事の芯に据えたのは、40歳の頃からだという。美大を受験してデザイナーになろうと決めたのは、高校3年の秋。中学時代は陸上、高校では麻雀と音楽に明け暮れていたというから、かなり唐突感のある将来の決め方である。
「陸上は県大会で好成績をあげていたんですが、県大会レベルで世界は目指せない。麻雀も音楽も無理。大学受験が迫ってきて、デザイナーなんかいいかなと思って美大を受けようと決めたのですが、デッサンも描けないし、もちろん全部落ちました」
その時の廣村の頭に浮かんでいたデザイナーの仕事はファッションと家具で、その中で家具をイメージしていた。が、家具は工業デザインで、そこに入るには数学が必要だと判明し、数学が苦手なので断念してグラフィックデザインに希望を修正。予備校で初めてデッサンを学び、翌年東京の美大に進学して、とりあえずデザイナーへの道を歩くことになったという次第。
極めて心もとないスタートではあるが、その後、廣村は田中一光(いっこう)デザイン室に就職している。田中一光と言えば、今も使われている西武百貨店(現株式会社そごう・西武)の包装紙やたばこのロングピースのパッケージデザインなどを手掛けた、昭和を代表するグラフィックデザイナーである。
「でも就職試験を受けたんじゃなくて、学生時代にバイトで入ってそのままという形ですから。田中先生はオーディオ好きで、私も音楽好きだったので、真空管を取り換えたりする音楽係に運転手兼皿洗いという、雑用係みたいな感じ。その頃は先生の覚えはよかったのに、3年くらいしてデザインの仕事を始めると、会う度に『君、いつ辞めるの?』『君は凡人だから人の3倍は働かないとダメ』とか言われ続けてました」
今ならパワハラ問題になるが、田中一光という天才肌の人間の生の部分に接していたことで、廣村はなるほどもっともだと自分で納得していたようなのだ。
「辞めなきゃと思って新聞の求人欄を毎日見て、先生にここを受けようと思いますと言うと、そんなとこはダメだと却下される。結局、77年から88年まで11年間、いさせてもらったという感じでしたね」
田中の事務所で11年、子会社で4年が過ぎた頃、ついに師の元を去る日が来た。それはデザイナー廣村正彰としてのめでたい旅立ちかと思ったら、何と破門され追い出されたというのだから穏やかではない。当時はバブル景気の真っ只中で、田中の事務所も膨大な案件を抱えスタッフが徹夜で仕事をこなす日々。忙しい田中がつかまらず、切羽詰まって田中の了承を得ずに仕事を進めてしまったことが逆鱗に触れたのである。業界の主流から締め出されたどん底の中で、廣村は自分がこの先どんなデザインをしたいのかという方向性さえも見失っていたという。