李氏の進言は通り、李氏は国際機構の代表団を平壌に案内してきた。その時に太氏は受け入れチームに入っていた。太氏はこの時のことを「それまでは外国代表団に北朝鮮の『輝かしい現実』だけを紹介してきたが、初めて北朝鮮の荒廃した姿、洪水被害地の凄惨な様子を見せることになり、苦しさを覚えた」と振り返っている。若き外交官にとってはショッキングな出来事だったようだ。
太氏はその後、国交樹立前の英国との接触要員に起用されてスイスを訪れることがあり、その際にも李氏の世話になったそうだ。李氏については、偉ぶらずに若手の声に耳を傾けてくれるとか、外交官が必要に応じて金日成バッジを外してもいいという許可を金正日氏から取り付けてくれたと書いている。李氏に対して好意を抱いているのは明らかで持ち上げすぎのような気がしないでもないが、李氏と多くの会話を交わしていたことは確かだ。
突発的な指示を「無条件には執行しない」外務省
太氏の述懐からは、外部世界との接触が多い外務省ならではの気質もうかがえる。一つの帰結が省内での粛清が少ないことだ。太氏は「3〜4年の周期で海外を行き来する外務省職員は、北朝鮮社会の不合理性を誰よりもよくわかっている。仲間内で北朝鮮の体制に対する不満を表出する人がいても、外務省職員は笑って受け流す。他の機関の忠誠分子のように、党委員会や保衛部に届けることは滅多にない」と記す。
さらに「一番重要なのは、金正日や金正恩が突発的に下す指示を無条件に執行しないという点だ」そうだ。外務省は突発的な指示が非現実的だと考えた場合、「将軍様の指示どおりにすればこの点はいいが、このような問題が起こる可能性もある。こうすればもっといいかもしれないという意見も一部あった」という報告書をいったん上げる。こうしておけば、もし実行して失敗しても責任逃れができる。これに対して他の機関は「首領様と将軍様の教示とお言葉は至上命令」と無条件で遂行し、失敗すると粛清の嵐が吹くことになるのだという。
本書では2013年末の張成沢処刑事件についても、原因や展開が詳細に書かれている。ただ、太氏は同年4月から2回目のロンドン勤務に入っていたうえ、そうした機密情報が外務省に通報されるとは考えづらい。極度に情報が統制された北朝鮮社会では多くの情報が口コミで拡散していくため、事件については口コミ経由で得た情報である可能性が高い。一般の人よりは確度の高い噂に接しているだろうが、その辺は注意が必要だ。それでも太氏の直接的な体験だけを拾って読んでも、やはり非常に興味深い。北朝鮮社会を知るために役立つ一冊だろう。
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