韓国に亡命した北朝鮮の元駐英公使、太永浩(テ・ヨンホ)氏の手記『三階書記室の暗号 北朝鮮外交秘録』(鐸木昌之監訳、文藝春秋社)がベストセラーとなっている。亡命直前にロンドンで金正恩国務委員長の兄である金正哲氏をエリック・クラプトン公演に案内した際のエピソードや、北朝鮮外交官たちの喜怒哀楽などは興味深いものだ。自らの体験と他人からの伝聞が混じっている部分があるし、一部につじつまの合わない記述もあるのだが、注意深く読むことで北朝鮮という国の一端を垣間見ることができる。ここでは太氏自身の体験を中心に、同書から読み取れることを紹介したい。
目に涙浮かべながら「マイ・ウェイ」を歌う金正哲
本書でもっとも印象的なのは、金正哲氏と過ごした時間の描写だろう。初めて見たロイヤルファミリーの奔放な生活が生き生きと描かれている。正哲氏が2015年5月にエリック・クラプトン公演のためロンドンを訪問した際、太永浩氏は現地での接遇係を務めた。正哲氏は政治的な役割を果たしていないものの、ロイヤルファミリーの近況を伝える証言は少ない。
興味深いことに太氏は正哲氏に「憐憫の情」を抱いた瞬間があったという。車に同乗している時に、正哲氏からなにか1曲歌えと言われた太氏が「マイ・ウェイ」を歌った時のことだ。歌詞をうろ覚えだった太氏を横目に、正哲氏は1番に続いて2番も歌った。その時、正哲氏の目に少し涙がにじんでいたのだという。ぜいたくな生活をしてはいても、やはり何か思うところがあるということだろうか。
2日連続の公演で正哲氏は初日から「立ち上がって熱狂的に拍手をしたり、興奮して拳を振り上げたりもしていた」。ホテルに戻っても「興奮冷めやらぬ様子で、また酒を飲もうと言った。これは命令に近い。各自の部屋の冷蔵庫のウイスキーとビールを持ち出してきて、私(太永浩氏)の部屋に集まった。冷蔵庫にあったすべての酒が、一晩で空になった」という。
ところが太氏は未明に大使からの電話でたたき起こされた。大使は興奮した声で、日本のメディアに気付かれ、正哲氏の公演観賞のニュースが世界中で流れていると告げた。それでも正哲氏は「ここまで来て、そんな記者風情が怖くて公演を見ずに帰れると思うか。何があっても見る」と言い張って、2日目も公演行きを強行した。傍若無人と言おうか、怖い物知らずと言うべきか。当然のことながら、会場で待ち構える世界中のカメラに捉えられることになったのだという。
正哲氏についてはこの他、高級レストランよりもマクドナルドのハンバーガーを好むことやロンドンの楽器店で即興演奏を披露して店主に驚かれるほど上手だったなどのエピソードが紹介されている。