都市と田舎の死生観の違い
生まれて、生きて、死ぬ。
どこに暮らしていようとそのプロセスは変わらない。
それでも、都会と田舎では“死”に対する日常での意識がまったく異なる気がしてならない。
都会にいると、死という概念をなるべく遠くに置こうとする。
暮らしから死の匂いを徹底的に排除することこそが、近代化、都市化だとも言えるからではないだろうか。目に映る風景には“今”を保つもの以外はほとんどない。劣化しない素材でできた建物、捨てられ腐るものをきっちり隠すためのシステム、まちを歩くほとんどが健康でしっかりとした人たち。そうした整理がなされているからこそ、合理的で効率的な都市運営ができる。
だから、死に対して馴染みようがない。命の終わりは断崖絶壁から突き落とされるようなもので、想像しがたい、受け入れがたい、あってはならないことのように思われている節がある。
一方、田舎には、生きて死んで世代交代することを自覚する機会がしばしばある。
集落の誰かがいなくなる前に、その人がやっていた役割を次の世代が引き継がねばならないからだ。そこには「自分の命は終わっても、この集落は続かねば」という意識が働いている。そうやって、ずっとつないできたシステムなのだろう。
「はい。これでもう帰ってこない。これで、おしまい」と言えるのは、順送りに自分が送られる側になることも、想定しているからこその強さだ。
あたりを見回せば、一代限りではなし得ない田園風景や生業が、そこかしこに見られる。
自分の存在とは、歴史のなかの一端であり、地域の中の一端であると、実感しないわけにはいかない。それが窮屈に感じることも、人生の時期によってはきっとあるだろう。ただ、命の終焉を予感する頃になった時、この環境は人に大きな恵みをもたらすのではないか、と察することができる。
計算して手に入れることはできない、かけがえのない学び
都会とは異なるこうした風習の中に身を置き、体験することで、筆者には2つの大きな発見があった。
ひとつは、わたしたちが人生に対して漠然と抱く“焦燥感”や“不安感”というのは、“いつか死ぬ”ということを体感としてすんなり納得できていないことにより、むやみに掻きたてられるのではないかということ。
もうひとつは、“集落”というコミュニティで役割を果たしながら生きるということは、その不自由さと引き換えに、“1人ではない”という心強さを獲得できるのではないかということ。
つまり、自分の輪郭をハッキリと示し、自分の能力で自分のために生きるということは、自由と引き換えに、自分の輪郭が強く示せなくなった時、つまり老いた時に訪れるであろう孤独や虚しさを引き受ける覚悟が必要だということ。
これが、わたしにとってごく最近の、二拠点生活の学びである。
一応確認すると、「自由を捨てよ、集落に生きよ」と言いたいのではない。
当たり前だと思っている都市的環境の外に身を置き、これを相対視することで、現代人が入りこみがちな隘路から脱出する道筋が見えたり、より健全なライフスタイルを探すヒントをつかむことができる、ということである。
「二地域居住をするとリフレッシュする」というほど単純な話でもなく。
「二地域居住は自分のレベルアップに寄与する」というほど直截な話でもない。
目的に沿って手に入れられるような、計算可能な学びとは趣きが異なるのだ。