インプットとアウトプットに距離のある学びの価値
関連して、筆者が大学院時代にアルバイトをしていた建築設計事務所での出来事をひとつ、告白する。
美術館のデザインを担当していた所員さんと、帰り道が一緒になったことがあった。彼は、「自分は大学時代、歴史系の研究室にいてね」と、アジアの村の集落調査のことをつぶさに話してくれた。
それを面白く聞いているうちに、ふと疑問が頭をもたげ、それを躊躇なくそのまま口に出した。「なぜ、考古学の知識を生かせる仕事をしないのですか?」と。
大学時代に建築意匠(デザイン)を専攻してきた自分としてはごく当然の疑問だった。この人はなぜ仕事に生かせることを大学で学ばなかったのだろうと、素朴に不思議だったのだ。考古学は、デザインの仕事に何の役に立つのだろう、という気持ちもあった。
彼はすこし黙った後、ゆっくりと、「そういう考え方は、下品じゃないかな」と、言った。
“下品”という言葉が、頭の中にこだました。
「何かに直接役立つことだけを学ぶ、入れたことをそのまま出す。それが真の学びだとは、僕は思わない。それからね、“学びを生かす”ということも、もっともっと幅広く捉えた方がいい」
あれから25年ほど経った今。
「二拠点生活のメリットは?」と聞かれるたびに、自分が紡ぎ出す説明のいかがわしさに身をよじり、下品だと言われた時の身の置き所のない恥ずかしさを思い出し、20年越しでようやくあの時言われた言葉の意味を理解することになったなと、苦笑する。
二拠点生活は、インプットとアウトプットの間に長い長い距離と時間がある学びだと言える。人生を大きく変容させるだけの、力のある学びだ。ものごとの捉え方が根本から揺さぶられ、世界を見る目の精度が上がり、知らなかった悲しみを知り、感じ得なかった喜びも受け止めるようになる。誤解を恐れずに言えば、人が生きる意味を知る学びが、そこにはある。
ただ、入れたことがどこから出るのかも、そもそも何か出てくるのかも分からない。時間をかけて自分の中で熟成し、もとの姿とはまったく違う形で、きっとどこかで作用しているといった体裁だ。
これが、まどろっこしいけれども、実感にもっとも近い表現かもしれない。
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