2024年12月22日(日)

Wedge REPORT

2019年8月31日

医学の進歩で寿命が延び、核家族化により死が身近でなくなった日本人にとって、これから本格化する「多死社会」で、死をどのように受け入れていけばよいのか。宗教学者の山折哲雄氏に、ジャーナリスト兼僧侶の鵜飼秀徳氏が聞いた。
山折哲雄(Tetsuo Yamaori): 宗教学者、評論家。1931年、サンフランシスコ生まれ。54年、東北大学インド哲学科卒業。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書に『「ひとり」の哲学』、『「身軽」の哲学』(ともに新潮選書)、『老いと孤独の作法』(中公新書ラクレ)など多数。(写真・太田未来子)

鵜飼:日本人の死を取り巻く環境が大きく変化をしてきています。たとえば昔は自宅で親族らによって看取られ、地域の人々の手によって手厚く葬られたものですが、今は病院や高齢者施設で死を迎えるのが大方です。ひとりで死に、その後の葬送も随分簡素になっています。できれば自宅で家族に見守られながら死んでいきたいと願っている人は多いですが、なかなか理想通りの最期になっていないのが実情です。こうした日本人の死をめぐる環境の変化を、山折さんはどう見ていらっしゃいますか。

山折:戦後75年間の死生観の変化の流れを見ると、二つの転機があります。

 一つ目は、近代医学の進歩によって、生と死を明確に区分するようになったこと。もうひとつは、高齢化です。死を取り巻く環境があまりにも急激に変化してきており、死生観の根幹にひびが生じているように感じます。

 最初に挙げた近代医学の進歩から説明しましょう。そもそも日本人の死生観というものは、とても長いタイムスパンで考えられてきました。過去から現在、未来へと「死と生は連続している」という考え方です。つまり、死というのは連続性の中でのプロセスの一つにすぎない。

 それは「生老病死」の中の、特に「老・病・死」に象徴的に表れていました。「老」は「死」への入り口を意味します。「病」も「死」へのもう一つの入り口です。二つの死への入り口をわれわれ日本人はしっかりと自覚し、ゆっくり死に向かっていった。これは500年、1000年単位で受け継がれてきた日本人の死生観の、根幹をなす考えなのです。

 ところが戦後、大きな画期を迎えます。それは、死を「点」で捉えるという考え方が急激に先鋭化したということ。つまり、生と死とをきっぱり二つに分けてしまった。その先陣を切ったのが近代医学の台頭です。

 たとえば死の告知。死の告知は、死と生が切断される、非連続な状態になる、ということを意味し、それを痛切な形で知らせます。要は論理的に、医学的に生と死を定義づけしてしまったのです。

 生と死との分離切断を強く決定づけたのは「脳死」でしょう。それまで心臓死が人間の死でした。心臓死だけの時代はまだしも、緩やかな死へのプロセスが意識されていました。呼吸が浅くなり、意識がなくなり、脈拍が少なくなり、そして心臓が止まるという。本人や看取る家族はその変化の中で緩やかに死を迎えた。

 そこに、脳死の概念が割り込んできたことで、生死の境がより鮮明になったのです。脳死の時点で人間の生命は完全に絶たれたという西洋医学流の認識を日本人も持たされるようになった。そこでは感情や、非論理的な考え方は排除されます。この脳死概念の導入から、「生と死の選別」が始まりました。


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