2024年7月16日(火)

Wedge REPORT

2019年8月31日

再びあいまいになる「死の定義」

 ところがです。再び、生死の境があいまいになる時代がやってきた。医学的処置の進歩によって、高齢化が加速し、皮肉なことに「生きながら死んでいる」状態があちこちで生まれてきているからです。今の高齢化は、人間の自然的生命力によって、ではなく、人為的に生かされて、仮想の生きている状態に近くなっている。それも、あくまでも医療の力に頼って、です。

 たとえば寝たきりや認知症の発症によって、最終的には病院のベッドに縛り付けられる。場合によっては胃ろうなどによって、殺されもせず、生かされもせず、という状況に置かれるというわけです。悪い意味で再び、死の定義があいまいになってきた。

 そこで、生死の問題を本質的に捉える必要が出てきました。改めて死を、「生と地続きの連続したもの」として、リアルな実感として再定義しなければならなくなったのだと私は思うのです。言い換えれば、時相的、時間的な問題として考えなければいけない。死は、医療以上に、文化の問題として捉え直すことが大事なのです。

鵜飼:戦後、集団就職でムラから若者が東京に出てきて、「個」の社会を形成してきました。田舎には親が残され、いよいよ団塊の世代が看取りの局面を迎えています。しかし、彼らは今さら故郷に戻って、介護をやって親を看取るなんてことができない。そこで施設に委ねざるを得ないという状況の中で、医師や介護士などの第三者によって看取りが行われている。それが、結果的に、死を点で捉えてしまうような状況をつくりだしている気がします。

山折:「個」は戦後になって初めて出てきたなんていうのはたんなる幻想で、前近代から「共同体」の中での「個」の存在概念はあった。たとえば、人が死を迎えようとするときには、「個」の意識の中で、「50歳になったらそろそろ老後や、菩提寺のことや、埋葬のことをちゃんと考えておかなければならない」というような話が自然に出てきていたものです。

 けれども自分の決断だけでは事は運べない。だから共同体のメンバーによってその協力を得て、葬式を出してもらう。具体的には、野辺の送りをする。そういう共同作業というものが過去には確実に存在していた。いまの「個」の問題は、この共同体に「委ねる」ことが崩壊してしまったということでしょう。それで施設に、死の面倒を見てもらい、「助けて」と悲鳴をあげることにもなった。

鵜飼:そういう状況にきちんと対応する社会を作る必要がありますね。看取りの場をどうするか。しかし、施設に入れればまだよいほう。今、東京には高層マンションが増えていますけれども、晩年はそこに閉じこもって、コミュニティーとも断絶された状況の中で、孤独死の危険もあります。

山折:だから、最近は先進的な建築家などはアーティストと一緒に組んで、「そういう高齢者たちをきちんと看取れるようなまちづくりが、本来建築家のやるべき仕事だ」と主張しはじめたんです。もはや、高い建物、個性的な建物を建てる時代じゃないということですね。東京なんて本当に絶望的な都市になってきたね。

鵜飼:一方で、政府は最後は住み慣れた地域社会の中で看取っていきましょう、という地域包括ケアシステムの構築を目指しています。しかし、それは死ぬまで。本当は死後、地域のお寺やお墓できちんと弔われ、故郷で安らかに眠れる仕組みづくりまで、レールを敷くことが大切だと思います。今、田舎から東京に遺骨を移す墓じまい、改葬が増えてきています。そうなってくると、戻るべき地域共同体の核がなくなってしまいます。

山折:かなり前から、骨をコインロッカーに封じ込めるという方式の納骨堂があちこちでつくられている。お寺自身が、そのような形で墓じまいを加速させている側面もありますね。

鵜飼:死を忌避する風潮が広がっています。今後、孤独死が多発する可能性が指摘されていますが、そういう危機的状況のなかで、日本人は果たして死ときちんと向き合うことができるのか。死を決してネガティブに捉えないような社会、あるいは葬送文化みたいなものを、日本人はどういうきっかけで取り戻していくと思われますか。

山折:そこは本当に大事なところです。私は子供のころから病弱で、入退院を繰り返してきました。現代医学のおかげで命拾いをし、寿命を永らえることができたのです。だから、現代医学には足を向けて寝られないという思いでいます。

 けれども時々、医者の会議に招かれ、講演させていただくのですが、そういうときに言っているのは、「そろそろ尊厳死・安楽死をちゃんと現代医学側の問題として、医療の方法としてきちんとそれを議論し、受け入れることを考えてください」と。


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