尊厳死・安楽死の問題はタブー
そうしたら、それに賛成する意見も多少は出てくるのですけれども、しかし、ある医師会出身の議員が最後に、「法律の壁を崩すことはできませんよ」と断言されたんですね。日本の医学、病院の動きを見ていると、やっぱりそう。シンポジウムのテーマにすらできないんです。尊厳死・安楽死の問題はタブーなんですね。
医学界に次ぐ抵抗勢力は仏教界です。僕はお寺さんとは付き合いがあるから、言うんですよ。「あなた方ね、一番今大事なのは、臨終行儀だ。死にゆく者に死をどう受け入れてもらうか。これを積極的にやってもらわないと、人間最期の重要課題が暗礁にのりあげてしまいますよ」と言っているんです。
しかし、実際は死んでお葬式の場になって初めて僧侶が出てくる。本来、病院で亡くなろうとしている人間の近くで僧侶が寄り添い、そこできちんと引導を渡さなければと思うんですが、この社会ではなかなかそうはならない。病院に僧侶が入って読経なんかしたら、たちまちつまみ出されてしまうのがオチですね。
鵜飼:しかし、制度をつくる側としては尊厳死や安楽死を議論の俎上に上げることはタブーということですよね。尊厳死・安楽死は、詰まるところは形を変えた自死なんじゃないかという、ことですよね。でも、そういう極端な話ではなくて、緩やかな死の迎え方の選択肢として、尊厳死や安楽死の選択肢も議論していこうという姿勢が大切です。しかし、議論の入り口にも立っていないです。
山折:だから私は『ひとりの覚悟』(ポプラ社)という新書を今年出したのです。その中で「死の再定義」「死の規制緩和」という、緊急提案をしました。死の再定義は、さっき言った「点とプロセス」の問題です。それから死の規制緩和というのは、90歳以上になったら死に方は勝手にさせてよ、ということ。『樹木希林 120の遺言』(宝島社)が大ベストセラーになったじゃないですか。その中のキャッチフレーズが、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」。この考えを世論は支持しています。
鵜飼:現代において、理想的な死の迎え方というのはあるのでしょうか。
山折:たとえば老後、自分で自分の身を処するという考え方は当然出てきます。そこで、「断食」という手法があるということを僕は以前からいってきた。家族や共同体に必要以上の迷惑を掛けないということもあるけれども、自分で自分の食のコントロールをして、最後は食を断って死んでいく。実はこの断食を死の入り口とする人が、戦後間もないころまでは結構、多かったんです。これは仏教の伝統にもあったということにもよっている。そしてそれは、場合によっては逆説的に健康を回復させ生命を蘇らせることもある。自分の決断において、生から撤退するという決断です。断食というのは、ぎりぎりのところで生まれ変わるという再生の契機でもあります。
だから、このような断食は宗教的な修行になり得る。かつての修行者は自分の余命がそろそろ尽きそうだと悟った段階で、断食、断水、断眠を経て、死を迎える。つまり往生する。そういう事例が、中世の『往生伝』や『高僧伝』にたくさん残されています。仏教が決してバカにできないのは、死がプロセスだということを体系化し、そのことを実践しているからです。
近代になってモルヒネを使った緩和医療が西洋からもたらされました。けれども、緩和医療というものは、外からの死に誘う手段の助けによっている。自らの自己決定によって自らを死に誘う断食とは意味が全然違う。
鵜飼:まさに断食は個の決断ですね。当然、共同体もそれを容認するだけの「胆力」が必要ですね。看取る家族の方もそう。「あの人はもう覚悟しているんだ。もう死んでいくんだ」ということを全体として容認、共有していくような度量の深さというものが、これからはさらに必要になる。しかし今、そのコミュニティーの度量がない。本人もそういう決断をできるほどの胆力がない。みんなぼんやりと、思考停止状態でだらだらと死んでいくような状態になっているのかもしれません。
山折:そう、だらだらね。私は、このような状況にいささか失望しているんです。あるとき、日本の伝統的な死生観の中で、理想的な死に方のモデルはどういう形だろう、ということを考えたことがあります。
そのとき出会ったのが平安時代末期の僧侶、西行なんですよ。西行というと、有名な句があります。
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」
つまり、自分が死ぬのは春3月。満月を振り仰いで桜の下で死にたい、と。往生願望を歌にした。実際、西行は旧暦2月16日の満月の夜、まさに桜の季節に亡くなったといわれています。2月16日というのはお釈迦さんがお亡くなりになる1日後。同じ日の入滅はまことに申し訳ないから、わざと1日ずらしたのかも。