2024年12月4日(水)

コラムの時代の愛−辺境の声−

2020年1月17日

最も愛した娘への執着

 もう一つ印象に残るのは、4人娘の中でも一番多感がゆえにデ・ニーロが最も愛した娘への執着だ。

 娘は思春期のころ、雑貨店主に小突かれたことある。それを母にこぼしていたら、聞きつけた父親(デ・ニーロ)が激昂し、店に駆けつけるなり店長を殴り倒し、手を踏みつけて骨折させる。

 娘は父親の粗暴性、数々の悪事を嫌い、繊細がゆえに彼との距離を置き、ある日を境に一切口をきかなくなる。

 刑務所から出所したデ・ニーロは孤独に暮らす中、彼を無視し続ける娘会いたさに、彼女が勤める銀行の窓口に松葉杖で近づいていくが、彼の接近を知るや、彼女はさっと窓を閉じ、まっしぐらに奥へと姿を消す。

 「あれが俺の仕事で、どうしようもなかったんだ」「お前たちのためだったんだ」「確かに、いい父親じゃなかった」「お前たちを傷つけたくなかったんだ」「何か、償えることはないか」

 仮にどう釈明しようと、元には戻らない。幼いころから父親をじっと見つめてきた娘の心を元に戻すことなど決してできない。家族などどうでも良いと思いつつも、マフィアであれ殺し屋であれ何であれ、実は最後の最後に人がこだわるのは、肉親への執着ということなのか。

 これもやはり人生、すなわち人間と人間の関係ということを考えさせる場面だ。

 映画では扉が効果的に使われている。2人の男がホテルのスイートで寝る場面や主人公が入る老人ホームの個室で、それぞれ扉が半開きにされる。

 扉を完全には閉めない。そこには、外界を完全にシャットアウトする孤独に、人は耐えられないということを示しているようでもあるし、その半開きの隙間を通じて人と人はつながっていると言いたげでもある。

 さて、見終わった後、何日も場面が脳裏に繰り返し現れ、人間のこと、人生のことをあれこれと考えさせる「アイリッシュマン」はその物語を作り上げる演出、編集の、つまりマーティン・スコセッシの妙技と言えるが、やはり真髄は俳優陣の力だろう。

 ジョー・ぺシはジュースにつけたパンをすするあの場面一つだけで、その秀逸を証明している。そして、デ・ニーロはやはりうまい。何を演じてもデ・ニーロのままという批判を差し引いても、下手に感情を吐露しない主人公の達観したようでいて、実に人間的な人格を見事に演じている。

 今更ながら気づいたのは、人に感動をもたらすのは、つまり感動の源は中身ではなく、表現ではないかということだ。つまり何を、whatではなく、どう、howということではないだろうか。

 このドラマを見て私が感動したのは、ストーリーもあるが、やはり俳優たちの、特に20代のころからずっと見てきたデ・ニーロと、ジョー・ぺシの表現そのものだった。

 何度見ても味わい深い。

  
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