映画というのは結局、役者の表現力に尽きる。公開中の映画「アイリッシュマン」を見てそう思った。
トラック運転手から殺し屋、マフィアの腕利きになっていくアイルランド系の男を主人公に据え、彼のモノローグ、心の声で彼自身の半世紀を振り返る物語だが、一番の見せ所は主役のロバート・デ・ニーロともう1人の主役でデ・ニーロのボス役、俳優、ジョー・ぺシの演技だろう。
主役はさらにもう1人、労働組合のボス、ジミー・ホッファを演じるアル・パチーノがいるが、やはり、現実の世界でも仲の良い2人、デ・ニーロとぺシの掛け合い、2人から醸し出される腐れ縁、ときに恐怖、畏怖をはらんだ友情がある種、人生の儚さ、虚しさをも描いて、見る者に響く。
儚さとは、例えば、名前を失念したが「1日は長い、でも1年は短い」というある老人の言葉に端的に表れている。
彼らはただ悪事を働きたいから、働いてきたわけではない。なにがしかのきっかけから、悪事に手を染め、もともとの度胸の良さ、開き直り、悔いにとらわれない潔さ、常識的なモラルの欠如、唯我独尊を同時に備えた彼ら特有の気質が、犯罪者としての彼らの生き方をたまたま規定したに過ぎない。
コンピューターグラフィクスなどの技術で、彼らは30代から70代までを視覚的に見事に演じているが、やはり映画の見せ場は、老いぼれになった彼らを映し出す最後の50分だ。
刑務所でデ・ニーロが手に入れたイタリア製の硬いパンをぶどうジュースで食べる場面がある。ほんの短い場面なのだが、なんだろう、妙なほど記憶に残るシーンだ。
「ほら」と手に入れたパンを嬉しそうに見せるデ・ニーロに、ジョー・ぺシは笑ってこたえ「歯がないから、食えない」と断るが、デ・ニーロがそれでも「どうだほら」と勧め、「少し、小さめのを」と応じる。ぺシは震える手でパンきれをジュースに漬けてはちゅうちゅうと吸い、イタリア語で「ブオノ、ノ?(美味いな、なあ)」と言う。
その直後、ぺシは自分が殺させた友人を思い、「あれはやり過ぎたな」と短い言葉で悔いる。それを聞いたデ・ニーロは一瞬動きを止め、親分格のぺシを、そして空を見つめるが、「まあ、食え」と促され、パンを頬張る。
ただ、それだけの場面なのだが、決して多くを語り合わない2人の間にある紐帯とでもいうような繋がりが、墓場に入る直前まで決して衰えることなく、当たり前のようにあることがわかる。
人はただ1人で完結するのではない。たとえ悪事であれ、善行であれ、2人の間にたまたま結ばれた人間関係。それこそが人生そのものなのではないか。
と、そんなふうなことをこの短い場面だけで見る者は考えさせられる。その点で言えば、長尺でだるいという声もあろうが、優れた映画と言えるだろう。