2024年11月22日(金)

WEDGE REPORT

2020年12月2日

外交官として戦時下のベトナムへ

 さて、読者諸氏はここまでお読みになって、筆者がなぜこれほど強く原子力に拘るのか、そもそもどういう経歴の持ち主なのか疑問に思われたのではないかと思う。そこで、私事にわたって甚だ恐縮ではあるが、しばらく筆者の個人的経歴や体験談を述べることをお許しいただきたい。

 私はここ20年余り、特に福島第一原発事故以来、原子力問題で盛んに発言しているので、てっきり原子力技術の専門家のように思われているようだが、そうではない。大学では法学や政治学を専攻した典型的な文系人間であって、元々理数系は苦手であった。

 いわゆる安保世代の一員で、友人たちからは白い目で見られたが、1960年代初め外交官試験に合格して外務省に入省。最初の任地は米国・ワシントンであったが、実際には語学研修ということで、ボストン近郊のハーバード大学のロースクール(法科大学院)に留学した。時あたかも、ケネディ暗殺の直後で、しかもベトナム戦争の最も激しい時期だったので、キャンパスには反戦運動が盛り上がっており、筆者もアメリカ人の友人たちに誘われて、週末ごとにボストンコモンズなどに繰り出して、「ベトナム戦争反対、即時撤退せよ」「LBJ(ケネディの後任でテキサス出身のジョンソン大統領)は即刻退陣せよ」などと大書したプラカードを掲げてデモ行進に参加した。いくら学生の身分でも現職の外交官だからまずいとは思ったが、ベトナム戦争には元々反対だったので、大使館には内緒で参加したわけだ。

ベトナム戦争反対のデモ活動の様子(BOSTON GLOBE/GETTYIMAGES)

 ところが、運命は皮肉なもので、2年後の人事異動で突然戦時下のサイゴン(旧南ベトナムの首都。現在のホーチミン市)の日本大使館に政務書記官として赴任。ちょうど米軍のベトナム介入が本格化し、「北爆」が始まった直後で、ハノイは連日B52による猛爆撃に見舞われており、北ベトナムのホーチミン政権は怒り狂って、一気に北緯17度線(南北境界線)を超えて南越に攻め入るだろうからサイゴンは共産軍に包囲され、大変な状況になる。共産軍は余勢をかってカンボジア、ラオス、タイからさらにマレー半島を南下してマレーシア、シンガポール、インドネシアまで攻め込み、東南アジア全体を赤化(ドミノ理論)するだろうから、とてもサイゴンから生きては帰れまいと、同期生たちは水盃ならぬ送別会をやってくれたほどだ。

 実際に、筆者は2年半のベトナム在勤中に様々な危機的状況を経験したが、特に、68年1月末のテト(旧正月)の時は、偶々地方情勢視察の名目で中部ベトナムの古都フエ(当時はユエ)に旅行中で、そこで共産軍による一斉蜂起、ベトナム戦争最大の激戦、「テト攻勢」に遭遇。文字通り死線を何度も潜り、「戦後日本外交官殉職第一号」になりかけた。

1968年1月から始まったテト攻勢  (BETTMANN/GETTYIMAGES)

 この貴重な体験がその後の私の人生に大きなインパクトを与えたことは確かだ。最大の教訓の一つは、ギリギリの状況で外交に「中立」はない、基本的にどちら側に付くか曖昧は許されないということだ。

原子力と環境問題との邂逅

 さて、ベトナムから帰朝してしばらく本省のアジア局や経済局に勤務したのち、突然国連局(現在は総合外交政策局)の科学課に転勤させられ、当時「ビッグサイエンス」と呼ばれた原子力平和利用、海洋開発、宇宙開発、南極問題等を担当。そこで初めて原子力を本格的に勉強した。

 特に重要案件だったのは、当時交渉中だった核拡散防止条約(NPT)に日本は加盟すべきかどうかで、それは当然日本自身の核武装のオプションを放棄するかどうかの難題が絡むので、非常に緊張した。中国の核実験(1964年)のわずか数年後だったから当然だ。結局、日本がNPTに加盟することのメリット、デメリットを慎重に比較検討し、国会(特に与党)の了承も取り付けて同条約の署名(70年2月)に漕ぎつけた。同条約は原子力発電の分野にも直接関係するが、当時は、まさに日本の原子力の興隆期で、関係各国や国際原子力機関(IAEA)との原子力関係の整理・合理化作業で多忙を極めた。

 ところが、別の分野では、ちょうどこのころ、高度経済成長のひずみとしての公害問題(水俣病、四日市病など)が表面化し、深刻な社会問となり始めていた。海外では、酸性雨などのいわゆる越境汚染、海洋汚染や野生動植物の保護などの様々な問題が噴出し、これらを解決するための国際協力の必要性が叫ばれ、スウェーデンの提唱で「国連人間環境会議(The United Nations Conference on the Human Environment)が72年6月ストックホルムで開催されることが決定した。

 当時日本国内では水俣病などの「公害」問題の全盛期だったが、「環境」問題などという言葉はそもそも聞いたことが無く、それが「公害」問題とどういう関係があるのか分からなかった。そこでストックホルム会議の準備委員会には、とりあえず厚生省や通産省などの「公害課」の役人中心の代表団を編成して出かけたのだが、ニューヨークの国連本部での会議に出てみて、どうも様子がおかしいことに気が付いた。

1972年、スウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議 (POPPERFOTO/GETTYIMAGES)

「かけがえのない地球」を創案

 現在では霞が関に独立した環境省もあるし、全国の大学には「環境学部」なども多数あって、環境という言葉は日常茶飯事のように使われているが、当時はそういう言葉も概念も無かった。東大などの偉い先生に尋ねても要領を得なかった。外務省内は勿論、日本政府内でも環境問題担当官は筆者一人だけだったので、相談相手もいない

 そこで、一介の公務員ながら、日本における「公害から環境へ」の意識革命の必要性を痛感した筆者は、ストックホルム会議の公式スローガンであった”Only One Earth“の日本語版として「かけがえのない地球」という語句を自ら考案し、朝日新聞の懇意な記者などの協力を得て全国に普及させた。また、環境庁の創設 (71年)にも参画し、その名付け親ともなった(当初、内閣府に厚生省、通産省、農林省などを主体とする「公害対策本部」が設置されていたため、当然のように「公害対策庁」と命名される予定だったが、筆者の主張で「環境庁」になった)。

環境庁の看板を揚げる職員 (THE MAINICHI NEWSPAPERS/AFLO)

 そうしたさまざまな経緯を経て、72年6月ストックホルムで国連主催の最初の環境会議が開かれ、森羅万象とも思われた地球上の多種多様な環境問題が初めて一挙に議論され、「人間環境宣言」も採択された。まさに世界史上画期的な会議であった。

 その後、同年中にロンドンで「海洋投棄規制条約」、パリで「世界遺産条約」、ワシントンで「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」、イランのラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」などの作成会議が立て続けに開催された。私はそれらの会議のほとんどすべてに参加したが、「ミイラ取りがミイラに」の例えよろしく、72年に新設された国連環境計画(UNEP)へ日本政府派遣の幹部職員第一号として出向する羽目になった。

 

(後篇に続く)

  
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