日本国内で原発再稼働や核燃料サイクル(六ヶ所再処理工場、もんじゅ問題等)をめぐる議論が沸騰している一方、国際社会では、新興国における原発問題、とりわけ再処理や濃縮問題が重要なテーマとして関心を集めている。
周知のように、使用済み核燃料の再処理(及びそこから出てくるプルトニウム管理)とウラン濃縮は核兵器製造に繋がりやすい機微な技術であるので、二国間原子力協定で特別に厳しく規制されている。さらに、国際原子力機関(IAEA)の査察や「原子力供給国グループ」(NSG)の輸出規制の対象にもなっている。そして、その結果、諸々の複雑な国際・外交問題が生じており、各国とも対応に苦慮している。
従来日本では、こうした核拡散をめぐる原子力外交上の問題が一般市民の関心を惹くことはなかったが、これからの日本国内の原子力政策や原発輸出、原子力技術協力問題等を考える上で必要な知識であるので、この機会に原子力外交の歴史的背景やその仕組み、問題点などをごく簡単に概説してみたい。
米国の核不拡散政策の大転換
原発の世界的普及に伴う核拡散問題に最も神経質なのは核兵器(原爆)を最初に開発した米国である。第二次世界大戦後米国は、アイゼンハワー大統領の「Atoms for Peace(平和のための原子力)」(1953年)構想の下、日本を含む世界各国に原子力平和利用を熱心に勧奨し、積極的に技術支援を行ってきた。
ところが、20年後の1973年に突発した第一次石油危機をきっかけに、各国で原子力発電所の建設が急増し、また、新しく原子力を導入する国が次々に出現したため、核の拡散、すなわち核物質や技術の軍事転用の危険を懸念し始めた。「核兵器の不拡散に関する条約」(核不拡散条約=NPT)は1970年に発効していたが、当時同条約に加盟しない国も多かったので万全とは言えなかった。
そのような折も折、NPT非加盟のインドが、1960年代にカナダから輸入した研究用の小型重水炉の使用済燃料からプルトニウムを抽出し、それを使って核実験を行った(1974年)。重水は米国が供与したもので、米加両国は大きな衝撃を受けた。インドはNPT非加盟国であり、しかも核実験は「平和目的」であると主張したので、必ずしも国際法違反を犯したわけではなく、それだけに対応が難しかった。ちょうどそのころ発足したばかりの先進国首脳会議(サミット)参加国は急遽ロンドンに集まって対策を協議した。日本を含む7カ国によるこのロンドン・グループこそ現在の「原子力供給国グループ」(NSG)の前身で、その主目的は機微な原子力機器、資材、技術の輸出規制であった。