2024年4月21日(日)

Wedge REPORT

2014年4月10日

 こうした状況の中で、若き日に海軍士官として原子力潜水艦の設計に携わった経験を持つジミー・カーター氏(民主党)が1977年1月に米国大統領に就任した。就任するや否や彼は、従来の原子力政策の大転換を断行した。すなわち、米国内の民生用原発の使用済み燃料の再処理と高速増殖炉の開発の中止を決定すると同時に、返す刀で、世界各国に対し再処理、プルトニウム利用等の禁止を含む厳格な核不拡散政策を適用すると発表したのである。

日米が激突した再処理交渉と
原子力協定改正交渉

 そして、この新政策の適用第1号として槍玉に挙がったのが、当時操業開始直前にあった日本の東海再処理施設(六ヶ所工場の約10分の1の規模)であった。かくして1977年夏、同施設の運転、英仏再処理委託、プルトニウム利用等を含む日本の核燃料サイクル計画をめぐって日米が真正面から激突した。日本国内では「国難来る!」の危機感が溢れ、マスコミも「日米原子力戦争」と一斉に書き立てた。

 東京で行われた日米交渉では、日本側は、宇野宗佑・科学技術庁長官兼原子力委員長(その後外相、首相を歴任)を中心に、官民一体のオールジャパン体制で徹底抗戦した。当時外務省の対米交渉担当者だった筆者らは、米国を説得し再処理権を獲得するために連日連夜、文字通り骨身を削る苦労をした。その結果、東海再処理施設については、なんとか運転開始を認められたものの、「2年間限り99トンまで」という厳しい条件付きであった。期間の制限はその後小刻みに数回にわたって延長されたが、その都度延長交渉は困難を伴った。

 結局日米交渉は断続的に10年の長きに及んだ。途中で1981年に米側の政権交代で、原子力推進派のロナルド・レーガン氏(共和党)が大統領になったため、以後の日米交渉は比較的スムーズに行くようになった。そこで、再処理問題を含む本格的な日米原子力協定の改正交渉に移行し、両国の行政府同士の交渉は事務的に順調に進んだ。しかし、米議会には民主党を中心に強固な核不拡散論者や反原発論者がかなりいて、様々な“難癖”をつけたので、最後まで気を緩めることはできなかった。

 このような様々な紆余曲折を経て、1988年に発効した新日米原子力協定(2018年まで30年間有効)では、日本は再処理、濃縮(20%以下)、第三国移転について「長期包括的承認」を与えられることになった。それ以前の「ケースバイケースでの承認」ではなく、一定の条件下で一括して事前承認するという方式を確立した結果、日本の原子力平和利用活動は安定した法的基盤におかれることとなったわけである。ちなみに、このような形で再処理、プルトニウム利用などを行うことができる権利は、核兵器国(米露英仏中の5カ国)を除くと、日本とユーラトム(欧州原子力共同体)加盟のドイツ、イタリア等だけに認められた非常に貴重な権利である。


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