10年ごとの記念式典、初の中止
中国側は、正常化10年の節目ごとに大規模な記念式典を開いていた。中国社会科学院発行『戦後中日関係史年表』によると、10周年の1982年は、歴史教科書問題が噴出し、対日批判が展開された年だった。それでも同年9月末に鈴木善幸首相が訪中し、記念式典には1000人が出席。歴史上初めての天皇陛下訪中を1カ月後に控えた92年には、中曽根康弘元首相が訪中して記念式典を開催した。
2002年は小泉純一郎首相の靖国神社参拝で日中関係は決して良好でなかった。しかし9月22日には6000人以上の日本人が人民大会堂を埋める中、江沢民国家主席と橋本龍太郎元首相がそこを練り歩き、翌28日には胡錦濤国家副主席、温家宝副首相、曽慶紅党中央組織部長(肩書きはすべて当時)という「次世代」を担う指導者が日中友好7団体会長らと会談した。
それだけに40周年の記念式典中止は衝撃的だった。筆者はこの情報に接した際、予想外の事態に驚愕した。その後、国営新華社通信は中日友好協会幹部の発言として「正常化40周年にあるべき雰囲気が破壊された」と伝え、日本政府の国有化が原因であると明言した。
期待したのは習近平副主席の登場
中日友好協会側は、40周年記念式典を中止にした代わりに、7団体会長らが北京を訪問するならば、国家指導者と唐家璇が会談に応じると招待していた。
そして登場した「国家指導者」が、賈慶林だった。日本側関係者の間では胡錦濤国家主席か、次期最高指導者・習近平国家副主席を期待していた。しかし出てきた賈に対して中国には中国なりの独自の見解があった。
11月8日からの共産党大会を目前に控え、今日本の要人と会うのは政治的リスクが伴う。党大会を前に、対日強硬派でない国家指導者などいなかった。党大会で引退する賈ならさほどリスクを負わなくても済む。さらに政協で「外交」を担当する外事委員会副主任には知日派・武大偉元駐日大使がおり、パイプ役を果たした可能性が高い。実際に当日、唐家璇と武大偉は2人そろってひそひそ話をしながら人民大会堂新疆庁に入る姿を、筆者は現認した。