2024年4月20日(土)

スポーツ名著から読む現代史

2021年9月6日

 驚きと感動の13日間だった。9月5日に閉幕した障害者スポーツの祭典、第16回夏季パラリンピック東京大会。新型コロナウイルスの感染拡大で、五輪とともに開催が1年延期され、すべての競技会場に観客を入れない異例の開催となったが、さまざまな障害を乗り越え、大会に出場した163カ国・地域の約4400人の選手たちはスポーツを通じて世界中に元気と勇気を発信してくれた。

(森田直樹/アフロスポーツ)

 東京は1964年に続いて2度目のパラリンピック開催地となった。57年前の大会と今回の大会で、障害者スポーツを取り巻く環境や、それを受け止める社会の意識はどのように変化したのか。「日本パラリンピックの父」と呼ばれる中村裕医師(1927-1984年)の名著『太陽の仲間たちよ』(1975年、講談社)を読み返し、64年大会の模様を綿密な取材で掘り起こしたジャーナリスト、佐藤次郎氏の著書『1964年の東京パラリンピック―すべての原点となった大会』(2020年、紀伊国屋書店)も見ながら日本における身障者スポーツの歩みを振りかえってみたい。

身体の機能回復に推進されたスポーツ

 国立別府病院整形外科医だった中村は1960年2月、日本ではなじみの薄かった「リハビリテーション」について、欧米の病院などの施設を視察・研修するため半年間、国から派遣された。米国での視察に続き、5月にロンドン郊外にあるストークマンデビルの国立脊髄損傷センターを訪れたのは、身体障害者の治療にスポーツを導入した神経外科専門医、ルードヴィッヒ・グットマン博士(1899-1980年)の実践を探るのが目当てだった。

 ドイツ生まれのグットマン博士は両親がユダヤ人で、ナチスによる迫害の難を逃れるため39年、英国に亡命した。障害者に「失った機能を数えるな。残された機能を最大限生かせ」と説いた言葉は今も名言として残る。

 初対面のとき、中村への博士の言葉はしんらつだった。「きみは日本人か。いままでにも何人もの日本人がやってきたよ。みんながここのやり方を真似したいといって帰っていった。ところが、いまだに一人として実行していないようだ」(『太陽の仲間たちよ』11頁)

 病気や事故で脊髄の機能をそこねて、下半身にマヒなどの障害を起こした人、といえば、当時の日本では再起不能者であり、生ける屍とみられていた。その重度障害者が6カ月で、しかも8割以上が社会に復帰するとは――。

 中村自身も半信半疑だったが、「入所者の85%は6カ月の治療・訓練で再就職している」という博士の言葉はウソではなかった。患者はいつまでもベッドで寝ていることは許されず、わずかでも残された機能を回復させるため、スポーツがすすめられた。


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