2024年7月22日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2021年9月6日

 ストークマンデビルの名前を世界に知らせたのは、そこでのスポーツ大会がもとだ。48年、同病院の車いす患者によるアーチェリー大会が開かれた。これがのちにパラリンピックへと発展する萌芽となる。

 年ごとに実施競技が増え、52年の第5回大会にはオランダの戦傷軍人が参加して初の国際大会となった。中村が訪れた60年に大会は初めて英国を離れ、五輪の舞台となったローマで開催され、この大会は後に「第1回パラリンピック」と認定される。

 スポーツの効用とともに、中村が感心したのは、障害者を受け入れる英国の福祉制度だった。社員20人以上の企業は、3%以上の身障者を採用しなければならない。エレベーター係や駐車場の係などは身障者以外を雇用できず、しかもこの数字は3%に含まれないなど、社会全体で障害者を迎え入れる制度が出来上がっていた。

帰国後はスポーツ大会開催にまい進

 半年間の欧米視察を終え、勤務先の国立別府病院に戻った中村は61年から積極的に動き出す。その一つは、日本における障害者の治療・訓練施設の開設であり、もう一つは障害者のスポーツ大会を開催することだった。

 どちらも日本での道のりは平たんではなかった。大分で身障者のスポーツ大会を計画した中村に寄せられた周囲の声は厳しいものばかりだった。「無茶だ!」「体調を崩し余病を併発させる」「身障者を見世物にするつもりか」――。

 それでも中村の信念は揺るがなかった。61年6月に「大分県身体障害者体育協会」を設立。同年10月には全国で初の「第1回大分県身体障害者体育大会」を開催した。

 翌年には2人の選手を引き連れてロンドンに渡り、東洋人として初めてストークマンデビルの大会に参加した。孤軍奮闘する中村の周囲に協力者が集まり始める。

 国内では63年に山口県で開催された国民体育大会の後に、第1回身体障害者スポーツ大会が開催されることが決まり、同年9月には国際ストークマンデビル競技委員会が、64年の東京五輪後に東京で国際身体障害者スポーツ大会(=パラリンピック)を開くことを正式に決定した。中村がグットマン博士と出会ってわずか3年。中村の夢は大きく花開くことになった。

顕著だった欧州との環境の違い

 64年11月8日、東京パラリンピックの開会式が行われた。会場は10月の五輪期間中、選手村に設けられた練習グラウンドである織田フィールド。日本を含む22カ国・地域から選手384人、付き添い185人が参加(資料により数字の違いがある=筆者注)した。大会は5日間で、実施されたのは陸上、水泳、アーチェリーなど9競技。今から思えばささやかな大会だった。

 中村は日本選手団長をつとめた。「ストークマンデビルの大会が、ついに、いま日本で開かれた!」(同書22頁)。日本は女子選手2人を含む53人の選手が参加。卓球のダブルスで渡部藤男、猪狩靖典のペアが唯一の金メダルを獲得したほか、銀5、銅4の計10個のメダルを獲得した。

 ただし、それらのニュースは、元気な障害者たちが頑張っている、という話題であり、メディアから「スポーツ」として扱われることはなかった。

 競技レベルで日本が欧米に大きな差をつけられていることが明らかになった大会でもあるが、中村にとっては、障害者を取り巻く環境にこそ、取り組むべき課題が鮮明になった大会でもあった。

 「外人選手は筋骨たくましい。顔色も明るい。それに対して日本選手は弱弱しく、顔色も暗い」(同書24頁)。外見の違いだけではない。欧米の選手がさまざまな仕事を持ち、給料も健常人と差がない生活をしているのに引き換え、「日本の選手は五十三名のうち仕事を持っているものが、わずか五人(木材屋、時計修理屋、印刷屋)。それも自営業ばかりだった。ほかはすべて自宅か療養所で、だれかに面倒を見てもらっているものばかり。元気がないのは当然だった」と指摘する(同書24頁)。


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