そのとき、操縦桿を握っていたアルヒポフ機長は「まばゆいほどの発光体」を感じた。物体は火の玉となって燃えており、すぐそばを通り過ぎた。この世紀のニアミスに、機長は「何事もなくわれわれは運が良かった」とさえ語る。
隣にいたコトフ副機長は爆発後、隕石が同じ方向に3つに分かれて降下していくのを見た。どの破片も燃えており、厚いアクリル板の窓越しでさえ「ほほに熱さを感じた」のだという。
爆発は「太陽より明るかった」とする閃光と大きな衝撃波をもたらした。現地では夜が明けたばかり。学校はすでに授業が始まり、会社員やOLらが職場へと急ぎ、通りでバスを待っていたり、車を運転したりしていた。
多くの子供たちも被害に
最初に街を襲ったのは閃光。その後、ドーンという爆発音がやってきた。
爆心地はチェリャビンスク南方のエマンジェリンスク付近とされ、この地域では一瞬、空が真っ白になった。まばゆい光は、直視した人が目を背けても、残光がまぶたに残るほどで、チェリャビンスクから750キロ西のサマラ州でも目撃されていた。
爆発の後、青空のキャンパスに白い隕石雲の筋が描かれた。旅客機が通った後の軌跡のような「飛行機雲」だった。瞬間、多くの人が「旅客機が空中爆発した」と思った。
人々は何だろうと思って、雲の方向をみつめていた。それから2~3分後、強烈な衝撃波がやってきた。
衝撃波による被害者には子供たちが多い。それは、このタイムラグが一つの要因ではないかと指摘されている。光の方向を見た子供たちが窓のそばへと寄ったとき、衝撃波で窓ガラスが割れ、その破片が顔や手足に飛び散ってきたのである。そして、パニックになって、校舎から逃げるときに切り傷を負った。
外にいた人はあまりにも強い風で転んだ人もいた。そして、旅客機の機長と同じように熱波を受け取った。当時の気温はマイナス15度ほど。あるOLは「お風呂の蒸気のようだった」と語った。温度計を見ていた男性運転手は、外気が一瞬で10度もあがり、マイナス5度ほどになったとも言っている。「花火の後のような臭いがした」という証言もあった。
軍需産業の街・チェリャビンスク
この衝撃波により、人々の頭に浮かんだのが「爆弾の爆発」だった。