「シン・ウルトラマン」(樋口真嗣監督)が大ヒット中である。東京・六本木の満員の映画館の座席にからだを沈めて、筆者も観た。映画のパンフレットによると、テレビドラマの「ウルトラマン」シリーズは、1966年7月11日から67年4月9日まで39作が放送されている。
放送は筆者の少年時代である。映画はシニアの回顧趣味かと思えば、館内は若者であふれんばかりだった。なぜ、いま「ウルトラマン」なのだろうか。
ウルトラマンを生んだ人たちとは
「ふたりのウルトラマン」(NHK総合・6月19日再放送)は、4月下旬に総合(九州沖縄ブロック)と5月初旬にBSプレミアムの放送を受けたものである。「シンウルトラマン」の秘密も解ける、秘話の数々に驚かされる、傑作ドキュメンタリードラマである。「ウルトラマン」の制作にかかわった人物のインタビューと、再現ドラマの組み合わせが絶妙の調和を保っている。
「ふたりのウルトラマン」の「ふたり」とは、シリーズの脚本を手がけた、先に制作プロダクションの「円谷特技」に入社していた、沖縄出身の金城哲夫(1938~76年:ドラマは満島真之介)と、金城を頼って上京した、友人の上原正三(1937年~:佐久本宝、60歳の役は平田満)である。1965年のことだ。沖縄が本土返還を果たす前のことで、上原はパスポートを所持している。金城が26歳、上原が27歳のときだった。
番組は冒頭から、観るものの度肝を抜く。なんと、ウルトラマンが闘った、怪獣たちの名前は、このふたりが沖縄言葉でつけたというのである。
ジラース:次郎おじさん
キングジョー:近所のおじさんのあだ名
チムル星人:「チムル」とは、頭のことで、頭でっかちの星人
円谷プロに集った、才能あふれる若者たちの群像のなかには、のちに映画監督となる、実相寺昭雄(玉置玲央)らの姿も描かれている。「帝都物語」(1988年)や、江戸川乱歩の一連の作品の映画化で知られる。
プロダクション名の経営者である、円谷英二(1901~1970年:綾田俊樹)の長男で監督の一(1931~1973年:青木崇高)、「怪獣博士」の大伴昌司。少年時代の読んでいた、漫画週刊誌の読み物部分にウルトラマンの怪獣について書いていたのは、きっと彼に違いない。