この都市化政策を、上記の記者会見の場で李首相は次のように説明した。中国の都市化レベルは国際的に見て同水準の経済発展の国家より低いレベルにとどまっている。したがって、中国には都市化の面で発展の余地が大きい、というのが出発点である。強調されたのは、今回「人類史上かつてない規模の都市化」であり、中国にとって重要なだけでなく、世界にも影響を及ぼすものであること。そして、巨大な消費と投資を呼び起こし、雇用を創出し、「農民を豊かに、人民を幸せにする(富裕農民、造福人民)」「人を核心とする新型の都市化」であり、これは「農業の現代化と相互補完する」、東西のバランスにも配慮するなどと説明した。
中央政府の政策を地方政府レベルで
換骨奪胎してしまう中国政治
長年温めてきたテーマだけあって、李首相の説明ぶりは立て板に水であった。しかし、中国政治で留意しなければならないポイントの一つは、中央政府が打ち出した政策を地方政府レベルが自分たちの利益に沿って換骨奪胎してしまうことである。「上に政策あれば、下に対策あり」なのである。
この点を考察するために、まずは過去の経緯を振り返ってみよう。李首相が今回打ち出す以前に、都市化政策は存在したのかどうか、あったとすればどのような問題があり、今回新たに打ち出さねばならなくなったのだろうか。
毛沢東時代には、社会主義国家として、都市部住民の生活は「揺りかごから墓場まで」国家が面倒を見ることになっていた。現実にはコストがかさむため、都市の数のみならず都市の規模も抑えられてきたし、農村から都市への人口流入も戸籍制度の導入により厳しく制限されてきた。急ごしらえの既存都市に適切な追加投資がなされず、都市住民の住環境も悪化の一途をたどった。
「改革開放」路線は都市政策にも一大転換をもたらした。1982年から、都市部を発展の極とし、周辺の農村部の発展を牽引させるという「中心都市理論」に基づき、行政・商業の中心地に周辺部の農村地帯(県)を合併して比較的広域の「市」(地区級市)を設置する実験が始められ、翌年から全国化が始まったのである。
この「地区級市」なる市については若干説明を要しよう。中国では省といっても一国の規模があり、何十もある(大きな省では100を超える)「県」を管理しやすいよう、省内をいくつかの「地区」に分けて、その中心地に省の出先機関を置いた。元来この「地区」が管轄していた「県」を合併し、新たに「地区」レベルの「市」(以下、地区級市)が設置された。つまり、「市が県を管理する(市管県)」方式による都市経済と下位単位の「県」経済を双方の発展を期待して、都市の規模と市政府の権限が拡大されたのである。