しかし、世界各国でノーマライゼーションの考え方が広まり、障害者や健常者にも自己決定権を認め、社会参加を促そうという機運が高まりました。障害者や高齢者の権利を制限するのではなく、判断能力が不十分であっても現有能力を活用し、不十分な部分は後見人がサポートすればいい、そういう考え方に基づく成年後見制度が欧州を中心に導入されていきました。日本もそれを見習い、90年代後半に成年後見法を議論されていく中で、法務省が各省庁に欠格事項の見直しを各省庁に打診しました。
しかし、100を越える欠格条項が残ったまま、時間切れ状態で、2000年に成年後見制度が開始しました。介護保険制度と成年後見制度は高齢化時代の「両輪」と位置づけられ、片方の介護保険制度の導入を厚生労働省が急いでいたためです。
――2000年から見ても13年も経っています。なぜこんなにかかったのでしょうか。
佐藤:残念ながら、日本では、障害者の権利擁護というテーマは、政治家にとってマイナーなんでしょうね。禁治産制度はほとんど利用がなく、年間1000件程度で、レアケースでした。だから禁治産者の権利剥奪は注目されませんでした。
障害者や高齢者のさまざまな福祉サービスは、以前は行政が「措置」するという考え方だったんです。それが、本人の自己決定権を尊重して「契約」に変えていくべきだとなりました。2003年に支援費制度として契約概念が入り、06年には障害者自立支援法に移行しました。「契約」となると、成年後見人のサポートが必要です。06年には障害者を中心に約1万件もの成年後見の集団申立てがあったと見られています。
このときに、それまでは「被後見人」にはなっていないので選挙に行くことができた障害者の方が、福祉などのサービスを使うために後見人を付けたら、突然選挙に行けなくなるという事態が数多く発生したんです。
私のもとにも、裁判に訴えたいという依頼がありました。でも、裁判は勧めませんでした。手間もお金もかかるし、何より、選挙権が奪われるなんていうおかしな定めは、認知症・障害者の方や家族の声を受けて、さすがに政治が動くだろうと思っていたんです。
でも、結局、今回裁判に提訴するまで、全く動かなかった。政治家にとってマイナーな問題だったと言うしかありません。
法律家も悪いんです。今回の裁判以前、憲法の学者で、違憲の可能性に言及していたのは、私が知る限り、一人だけです。学生が学ぶ憲法の教科書にも記述がなかった。そもそも憲法や民法の世界で、障害者のことがテーマとして取り上げられることは少ないんです。でも、提訴後は憲法の教科書に書かれるようになりました。誰が見てもおかしいからです。