世界一短い手紙という話をご存じか。
「?」、「!」というやりとりである。
フランスの文豪、ユーゴーが、「本は売れている?」というつもりで、「?」と出し、編集者は「売れてます!」と、「!」と返したという話。
浜松にうなぎパイの春華堂(しゅんかどう)を訪ねた時に、ふと、その話を思い出した。思えば、私にとって、このお菓子、まさにそんな感じだったのだ。
何十年前かは失念したが、はじめてその存在を知った時、夜のお菓子と聞いて、「なに、それ?」と思い、うなぎパイと聞いて、「なるほど!」と納得した。微笑というよりも、艶笑というか、そんな笑いを浮かべながら。
「?」や「!」に想いがつながるかはともかく、読者諸姉兄も、同じような想いを持たれたのではあるまいか。そして、その「ふふふ」「にんまり」といった笑いと共に、うなぎパイの名前はしっかりと記憶に刻まれたのではあるまいか。
ところが。数十年を経て、それが誤解であったことが判明した。もともとは、そんな艶っぽいことを想定して、「夜のお菓子」などというコピーをつけた訳ではなかったというのだ。
うなぎパイが誕生したのは昭和三六(一九六一)年である。新幹線開通前夜。
当時は高度経済成長の時代。全国的に女性の社会進出が一般化するのは、もう少し後だったようだが、特に工場地帯である浜松は早くから、共稼ぎが多かった。
そのこともあって、家族揃っての団らんといえば、夜しかなかろうというわけだ。「一家団らんのひとときを、うなぎパイで」という意味合いで、売り出す際に社内で考え出されたコピーが、「夜のお菓子」だったという話なのだ。
そう聞くと、なるほど、そういう見方もあるのかとは思う。が、夜のお菓子とうなぎでイメージするものとしては、私が思い描いた方が、やはり、多数派であったらしい。
景気も良かった。夜の繁華街もにぎわっていた。そんなキャッチフレーズを聞いて、素直に家族の団らんを思い浮かべるよりは、洋酒の肴としての夜のお菓子……。 ところで、当初、うなぎパイのパッケージはブルーであったという。浜名湖のイメージ。
この会社が面白いのは、お客がそう思うのならばと、パッケージまで変えてしまったこと。現在のそれにつながる赤と黒と黄色。
そう、まむしドリンクなどのような精力剤的イメージ。そして、その結果はご存じの通り。
あまりにも、良く出来た話だから、眉に唾をつけてしまうが、いえいえ、本当なのですと、真面目な顔で、広報担当の方。
ともあれ。言うまでもないが、売れたのはイメージのおかげだけではない。