フィールドワークが実践と結びつく
宮本民俗学の最大の特色、それはフィールドワークの成果が実践と結びついていたことだ。
戦中戦後の大阪府下の農業指導、農業技術の普及から始まり、戦後の佐渡の小木民族資料館の設立や「おけさ柿」の栽培奨励、「鬼太鼓座」の開設などがある。また、新潟県山古志村では伝統の錦鯉養殖や闘牛(牛の角突き)を再活性化させて地域起こしにつなげ、山口県光市では「猿回し」を復活させた。
宮本は1953年には離島振興法を成立させ、全国離島振興協議会の初代事務局長にも就任した。
「これはね、宮本の場合、やむを得ないんです」と、畑中さんは言う。
「現地の人は、彼が百姓出身で全国を回ってきた人だと知ると、調査のテーマに協力した後、ほぼ例外なく質問を浴びせます。ウチの村にはコレとアレの問題があるけど、どうすればいいか、知恵を拝借したい、と」
宮本は一人の農民として、「世間師」として、それらの質問に向き合う。誠実に、具体的に答えようとする。
調査のみの学者なら決して踏み込まない領域だが、宮本は学者の枠を軽々と乗り越えるのだ。
最後にやはり、宮本論で外せないのがパトロンの渋沢敬三(1896~1963)のこと。宮本の民俗調査を、公私にわたり支援し続けた人物だ。
渋沢は「日本資本主義の父」渋沢栄一の孫で、戦前は日銀総裁、戦後は大蔵大臣を務めた大物財界人。宮本は戦前の渋沢家のアチック・ミューゼアム(後に日本常民文化研究所)時代に研究所員となり、以後4半世紀にわたってそこを拠点かつ住居にして調査・執筆活動を続けた。
「渋沢はどんなに遅く帰っても宮本に声をかけました。そのことを宮本は終始恐縮し、感謝し、自分への励ましにもしていました」
そんな渋沢の口癖が、「主流にならぬこと、傍流でよく状況を見ていくこと」だった。自身水産学を研究した渋沢は、周辺の大切さを熟知していた。
渋沢の思いを胸に、日本全国を計16万キロ、地球4周分も歩き回った「旅する巨人」宮本から、今日の我々は何を学ぶべきなのか?
「庶民は支配者から搾取されっ放しの存在、という見方は宮本の時代にもありました。でも彼は、日本の共同体には相互扶助や開放性があり、そのおかげで漸進的に発展できるとさまざまな具体例で示しました。思想家である宮本が発見した、我が国の歴史のもう一つの進み方です」
我々は、地域を見回し、足許を見つめ、「本当の持続可能性とは何なのか?」あたりから、宮本流に考え始めてもよいのかもしれない。